いろいろと皆様にはご心配をおかけいたしましたが、無事2012年8月25日夜遅く日本へ帰ってまいりました。
着いたのは羽田飛行場でしたが、機内から機外に出るやいなやムッとした暑さを実感し、すぐにその晩の寝苦しさを思い、心配しました。
今回は7月5日東京→北京→7月8日香港→7月12日上海→7月14日北京→8月25日東京の行程で約50日の旅になりました。中国は沿海部を縦断したのですが、時期は真夏で香港・上海と共に大変な暑さでいささかまいりましたが、北京へ7月14日に戻ってから8月中旬ごろまでは天候は曇りがちで気温的には余り上がらず、下旬からは熱くなりましたが、それでも日中こそ30度数度ありましたが朝夕は25度以下で比較的涼しく、夜の睡眠時エアコンを一度も使わずに日を過ごすことができました。
引っ越したばかりの自宅のあるマンションに帰ってきたのですが、カギは持っているのですが、それには何も書いていないので、さて何階に住んでいたのか、それこそ難解で、ともかく確かこの階だろうと思って扉に鍵を差し入れ開けてみたのですが、何度やっても開かず、というのもカギは上下に付いていて両方が正しくないと開かないのです。合っていなければ人の部屋を開けることになり、そちらに気がいって気持ちが動転していたものですから、カギが上手く回転してくれません。諦めかけて、自分の事務所のFさんに聞こうと思い、最後のトライをしたところ、なんと部屋の扉が開きました。やっと部屋に入れて本当にホットし気持ちがクルーダウンしました。
昨夜は今年日本で初めて就寝時から翌朝までエアコンのお世話になることになりました。中国に滞在していた間中東京の暑さは厳しいと聞いていましたが、本当にその通りだと実感しました。確かに日中は温度的には東京は北京あたりと同じくらいですが、湿度が低く日陰に入ると結構涼しく感じます。また、乾燥しているので喉がよく乾き、濡れ雑巾なども翌朝にはほとんど乾いています。この点ではしのぎやすいのです。
今朝はエアコンをかけていてさえも、照りつける日に炙られるように起こされ、その後ぐずぐずして結局10時から久しぶりの東京での散歩に出ましたが、日陰が北京の街の中に比べて少なく、散歩は朝のもっと早くからか、夕方の陽が斜めになってからの方にしようかと考えています。
久しぶりに東京の街を散歩していて思うのですが、北京の蝉は鳴く声に元気がなく、比較的木の高いところで鳴いていて、近づいてしっかり音色を聴こうと思うのですが、木の下に行くと用心深くすぐ鳴きやんでしまいます。鳴き声はジージーと鳴くか、たまにミンミンゼミがいてミンミンミンミーと鳴きますが、いずれにしても音はすれども姿は見えません。
また、この前にも少し蝉について書きましたが、僕は抜け殻をずっと探してきましたが、彼らが出てきた穴さえ一度も見つけられませんでした。中国人は概して日本人に比べて自己主張を老弱男女を問わずしっかりしますが、中国の、いや北京と限定的に言った方がいいのかもしれませんが、蝉の場合はどうやらそのようではないようですね。
僕は昆虫を研究している学者ではありませんが、北京の蝉は抜け出した穴さえ人に知られないようにし、抜け殻さえ僕は見たことがありません。きっと地ゼミから脱皮するところを人に見せたくないし、その抜け殻さえも人の目には触れないようにしているのでしょうか。なんと奥ゆかしいのでしょうか。「セミヌード」を見てみたいと思ったことは正直ありますが、「フルヌード」など絶対見られないでしょうね。
聞くところでは、抜け殻は漢方の薬剤になると聞いたことがありますが、彼らは先にその衣装を売却してから樹上の仕事を始めるのかもしれません。
今日は久しぶりの散歩でしたが、蝉のことがかなり気になり、樹上に目を細め、地上に目を凝らして散歩しました。
ミンミンゼミ・アブラゼミの声を聴き、彼らを見かけツクツクボウシの声を聴き、脱いで木にかけた衣服を見、彼らの路上での冷たくなった亡骸を今朝の散歩で見かけました。
つぎのような一句思いつきました。
「蝉の声命の限り身を焦がす」
僕らもそのようであるのでしょうかね。
「標語(标语biāoyǔ)」
”向前小一歩 文明大一歩 (Xiàngqián xiǎo yī bù Wénmíng dà yī bù) ”
Step a bit forward please
先日とあるレストラン(中国料理)で男子小用便器の上に標語があり、意味は「前へ踏み出す小さな一歩が、文明への大きな一歩となる」、つまり「便器に更に一歩近づいて用をすませることが、人品・人格を向上させる大きな一歩となる」というように解釈できます。
もう皆さんはおわかりでしょうが、要するに便器にできるだけ近づいて用をたして、外に漏らさないできれいに使用して欲しいという店側の要望です。
ところが英語バージョンも併記されていて、それは至って簡単・明瞭・直裁、「便器の前にもう少し近づいて用をたしてください」の意味です。
中国語・英語は共に字数的にはあまり変わりませんが、中国語では対句的で、更に脚韻を踏んでいて、同じような内容を多くの含蓄をもって表現しています。さすがに文字の国にふさわしい修辞ですね。
このように表現されれば、人品・人格共にあると自認する紳士はきっと自尊心をくすぐられ一歩踏み出すでしょうね。女性の方にはいま少しこのような状況はわかりにくいかもしれませんが、ただし、淑女は踏み出してはいけません。
そういえば以前、北京東3環路の長虹橋附近にある四川料理屋に行ったとき、従業員の出入口の壁に、次のような標語がちらっとみえました。
“今天工作不努力,明天努力找工作”
(今天;今日。工作;仕事。明天;明日。找;探す。)
(今日一生懸命努力しないと、明日一生懸命仕事を探すことになる)というものでした。
店の経営者としてはこの対聯のような標語を用いて、従業員に一生懸命に働けというのです。
いや、何かにつけて文字を用いて巧みに表現されるこのようなことは、かりそめにも文字を手段にして生業とするものにとっては刺激的で楽しいものです。
皆様はどのように感じられますか。
昨日ようやく先週から引き続いたNHKの仕事が終わりました。月末には帰国しますが、その前に今日、引越しです。
NHKの番組は、なんでもBSで以前の「ホット@アジア」に関連する特別番組で、約50分、この番組のレギュラーでタレントの杉山ハリーさんがメインとなって北京で全編ロケを行い、僕がお手伝いしました。放映は秋だそうです。楽しみにしてください。
引越しは、本当は東京で引越しをしてきたばかりで、北京でまた引越しはしたくなかったのですが、マンションの上海人のオーナーが売却するということで、引越しを迫られました。今日引っ越します。
今日の北京は曇り空で、気温は最低21度最高30度で蒸し暑いです。皆様は何如お過ごしですか。
このところ、メディアを騒がせている諸島を巡る韓国・中国・日本の領有権問題は、当地ではニュース番組で報道されますが、市民レベルにおける街角などではそのような話題は耳にしていません。
去る17日は僕らザ・タイガースの最初のマネージャーであった中井国二さんの一周忌でした。昨年9月8日から今年の1月24日まで、ほぼザ・タイガースとして全国38回に及ぶライブツアーが実現し、無事に終えられたのは中井さんが天国から我々をしっかり見守っていてくださったお陰だと、改めてこの一年を振り返って思っております。
遅ればせながら、ここに重ねて北京よりご冥福をお祈りします。
東京はまだまだ残暑厳しいと聞いておりますが、どうぞ、皆さんお身体に気を付けてこの夏を乗り切ってください。
毎年8月15日、日本では「敗戦記念日」、俗に「終戦記念日」であり、逆に当地中国では戦勝記念日ということになり、「日本投降記念日」といいます。1945年から今年で67年目を迎えていますが、最近の日中間の関係からまた何か起こるのではないかと気を揉みましたが、幸いにして、テレビ(CCTV中国中央電視台)ではこの日に当たるとごく簡単に報道しているだけでした。
一般庶民、日常生活レベルでは、政治の中心地北京であっても、関心を持つ人はほとんどあたりに見受けられないようです。日本もそうですが、このようにして年々歳々徐々に風化していくのでしょうね。
近頃は夕食後の散歩は30分程度にして、朝食前の散歩を約1時間にしています。文章の材料を考えたり、思索したり、歌を作ったりする時間はもっぱらその午前の時間にしています。
朝から陽射しが強い場合は、ある社区(コミュニティー、団地のようなエリア)の木陰の所を選んで歩いています。これらの社区は予想以上に木々が植わっていて、有り難い緑陰を提供してくれます。
今日は雀が3羽集まって、楽しそうにじゃれあっていましたから、まるで踊っているようにも見え、さしずめ3羽だからサンバでも踊っているのかと思いました。また、比較的長い時間、あるビルの横でピイチクパアチクヒバリの子のようにやっていたので、きっと麻雀(máquè中国語ではスズメのこと)たちは麻将(マージャンは「麻将」、「打麻将dǎ májiàng」でマージャンをする)でもやろうと相談しているのでしょう。
でも、3羽ではどうにもなりません。できなくはないですが、3羽マージャンでは、よい手が作りやすく勢い得点が高くなり、いわゆるインフレマージャンになるので、やはり4羽がよいのです。それで先ほどから後一羽メンバーを探そうというのでしょう。
かくいう僕たちザ・タイガース以前の仲間は遊び仲間、踊り仲間、マージャン仲間でもあったわけですが、岸部一徳、森本太郎、瞳みのるの三羽ガラス(?)が初めに揃ったころ、マージャンをやるのに一羽足りないので、加橋かつみを加えマージャンを教え込み、やっと4羽揃ったのでした。事実上僕たちの4羽目のスズメはいいカモ(?)になってくれました。これで、もうメンバーは足りていましたので、その後われわれのグループに入った沢田研二には最初からマージャンを教え込むのは面倒なので、教えませんでしたし、また彼もおとなしく我々がジャン卓を囲んでいるときは側で見ていて、お茶を入れてくれたりしたので重宝しました。そんな彼ですがその後の舞台で僕らの代表のように歌唱面では常にトリ(?)をつとめましが。
話を戻しますが、くだんのあたかも3羽ガラスのような先ほどの雀たちは、僕たちにとっては4羽目の雀士、加橋かつみのような仲間を、探しているのでしょう。
例えばこようなとき、孔子がメンバーにいて、加橋かつみが折りよくやってきたとしたらら、
孔子は次のように言うに決まっています。
「朋(とも)有(あ)り遠方(えんぽう)自(よ)り来(きた)る、亦(また)楽(たの)しからずや」と。
(「有朋自遠方来、不亦楽乎」『論語』「学而」)
マージャンの面子が一人足りなくて困っているときに、たまたま予期せぬジャン友がやってきたりするとまさしくこのような気分になります。
ついでながら、現代中国語では「不亦楽乎」(亦(また)楽しからずや)は「程度の甚だしいさま」を言う場合に用いられています。孔子のいったことも中国では現代になると思わぬ使い方がされるようです。きっと彼だってさぞ驚くことでしょう。
でも、ジャン友らは「欣喜雀躍」し、「快哉」(快なるかな)を叫ぶこと間違いなしです。
北京はこのところ朝夕涼しくなりました。日本はいかがですか?
今日でオリンピックゲームは全て終わりました。
今になってようやく話題にするのは、関心がないわけではありませんでしたが、北京では朝はいつもCCTV(中国中央電視台)のニュースチャンネルを見ているのですが、オリンピックが始まってからは、この放送局は当然ほとんど終日オリンピックで中国選手の活躍する中国関連の放送ばかりで、中国チームが金メダルを常に獲るので、勢い しょっちゅう国歌(義勇軍進行曲(ぎゆうぐんしんこうきょく、Yìyǒngjūn Jìnxíngqǔ )を繰り返し聞かされ、いささか食傷気味になり、開催後は朝テレビをつける時間帯はちょうど別の局で「李小龍伝奇」(ブルースリー伝奇)の約50週に及ぶテレビドラマをやっていたのでもっぱらそればかり見ていました(連日、一週約50分を3週分放送)。
思えば、東京オリンピックは1964年に開催されましたが、当時は昼間、サラ金の集金係をし、夜は定時制の3年に在籍し、休みには岸部一徳、森本太郎、加橋かつみらとバンドを組み、確か沢田研二にグループ加入を勧め音楽活動をしようかというような頃で(我が家では妹達は熱心に見ていたようですが)、全くオリンピックを見るような時間はなかったように思います。
次のメキシコオリンピックは1968年で、わが母校京都府立山城高校出身の釜本邦茂(二年先輩)が活躍して、サッカーでは初めて銅メタルを獲ったことを誇らしく思いました。今回は残念でしたね。
でも、ザ・タイガースとしては67年に「僕のマリー」でレコードデビューをした翌年ですから、猛烈に忙しくなっていたのでその試合を誰もゆっくり見ているどころではなかったのです。
それ以後個人的にもオリンピックには縁が薄く、話は教員時代に飛びますが、教員になったばかりの1980年のモスクワ大会は開会式当日、モスクワにいたのですが、日程の都合で翌日フィンランドへ旅立ちました。まだベルリンの壁が存在した時代で、ソ連のアフガン侵攻に対して西側諸国は一斉に抗議し日本も同調して参加を拒否した大会でした。それで僕も見に行かなかったわけではありませんが。
それから、同じく教員時代、2008年の北京大会当日も夏休みを利用して北京にいたのですが、当夜レストランで食事をしているときに開会式がおこなわれ、店では大変熱狂していましたが、暑いさなか特に見に行きたいとは思いませんでした。
これは、最も多感な青年期にこのような国際的運動イベントを見る機会を失ったというのが大きな理由なのか、それとも個人的には身体的に恵まれていないことから、体育会でなく文化系的な人間であるせいなのかよくわかりませんが、恐らく、小学校以来体育の授業に身体的には明らかに差があるのに、常に相対的な評価をしてきた教師に何か割り切れないものを感じたことなのかと特にオリンピック開催の時期になると思ったりもします。
昨夜録音したのは「今年初めて聞いた北京のコオロギの鳴き声」です。
この鳴き声を聞くと、もう何だか秋の到来を思わせますね。
昨日は満月でしたが、月暈があってぼうっとしていてさほど美しくはありませんでした
が、皆さんの地では如何でしたか。
コオロギは漢語では「蟋蟀」と書き、中国の北方の方では「蛐蛐儿」といいます。
北京辺りでは、10年前位の中国映画で見かけたのですが、「コオロギを闘わせる」遊びが古くからあって、強いのになると一匹あたりとんでもない高価な値段がつくそうです。
コオロギのことを書いていて、急に子供時代のことを思い出しました。小学校の
低学年のころ京都は御室仁和寺の向かいに住んでいた僕より三四歳年下の男の子をつれて、コオロギ取りに秋ごろよく出かけたのが懐かしいかぎりです。
また、教員時代にドイツ語の教育実習生で、「興梠木」(こうろぎ)さんという女性が
いて強く印象に残っています。「人見」という姓も余り多くありませんが、いや日本人の姓は本当に多いですね。張三李四の中国人と比べても。
当地は、なんとこの時期珍しくここ二三日連日雨が降っています。台風の影響でしょう
か、気温は低くていいのですが。皆様お変わりございませんか。台風は大丈夫ですか。
先日初めてカタツムリを見ました。漢語では「蝸牛(蜗牛wōniú)」といいます。日本で見かけるものよりはるかに小さくて、初め見たときは木に付着したゴミか小さな木のコブ、幹から出た木の芽のように見え、立ち木にいるので、よく見ないと何だかわかりませんでした。
思うに、彼らがこんなに小さいのはきっと大きくなるとフランス人が食すように、食べられてしまうから大きくならないよう自己防衛しているのでしょうか、それとも大きいのはもう食べらてしまったのでしょうかね。
ところで、「蝸牛角上の争い(カギュウカクジョウのあらそい:蜗牛角上争・蜗角之争)」という故事をきいたことがありますか。
中国春秋戦国時代の思想家「荘子」雑篇・則陽の「カタツムリの左の角(つの)に国を持つ蝕氏と、右の角に国を持つ蛮氏とが、互いにカタツムリの角の上で領地を争った」という寓話から、意味は「狭い世界でのつまらない争い」のことです。
このような争いは、我々の現実世界でもよくあることで、その大は政治の世界、小は家庭の中かもしれませんね。物事は大所高所に立って考えてみたいものです。
そういえば、今年2月から6月までのトークライブで皆さんにご紹介した虎の刺繍に縫いこんだ“高瞻远瞩”(gāozhānyuǎnzhǔ 遠大な見識を持つこと)のようにありたいものです。
ちなみに、残念なことに上述の寓話は、現代の中国人は自分達の国の故事成語なのに、学校で習っていないのでほとんど知らないようです。
またまた話は食べ物になりますが、フランス料理のカタツムリは焦がしたニンニクとバターの香りが食欲をそそりますね。皆さんお好きですか。これでシャンペンは溜まりません。僕は大好きです。
中国では寡聞にして食用のカタツムリは知りませんが、食品ではなく韓国では化粧品として「かたつむりクリーム」が使われているそうですね。使ったことがないのでわかりませんが。
ともかくも、彼らの動きを見て、些細なこと、つまらないことにこだわらず、人生蝸牛の歩みのようにゆっくり進めたらと思うこと頻りです。
道路の両側に植えられた街路樹(街道两旁的林阴树jiēdào liǎngpáng de línyīnshù) エンジュの木(树名:槐树huáishù)は7月真夏の今、開花(花名:槐花huáihuā)しています。
道路に散り敷き清掃する人泣かせ、樹下に日を避けて駐車する人泣かせ、樹下髪の毛にかかり歩く人泣かせ、道路に積もり靴底に付着し歩く人泣かせ、でも真夏の到来を知らせる使者、やはり春3,4月ごろ、白い綿毛をもった柳の種子で雪のように飛ぶ「柳絮」と並んで北京では欠かせない季節感を与えてくれます。それでも素晴らしい秋の到来がやはり待ち焦がれます。
ところで、秋は誰もが待っていますか、「秋老虎qiūlǎohǔ」(「秋の初めの暑熱の日、立秋後の残暑」を秋老虎といいます)は嫌ですが。
エンジュの木といいますと、次のような唐代の伝奇小説『南柯太守伝』の「南柯一梦(nán
kē yī mèng)」を思い出されます。
淳于棼という酒好きの男が、酔って庭のエンジュの木の下でうたた寝をし、そこで槐安国の使者という二人の男が現れ、槐安国の国王のもとに連れて行かれ、そこで国王に気に入られ、彼は南柯郡の郡守にとりたてられ、国王の娘と結婚します。彼は当地をよく治め、栄華を極めましたが、やがて敵国の侵略や愛妻の急逝で意気消沈していると、これを見た国王が帰国をすすめ、帰国したところで夢からさめました。
夢からさめた彼がエンジュの木の根元を調べてみると、ベッドが入るほどの穴があって大きなアリがいました。これが槐安国で、もう一つ穴があり調べてみると南の枝(南柯)に通じていて、これが南柯郡だったそうです。
以上は「はかない夢、むなしくはかないこと」のたとえとして用いられている故事です。
そういえば、このところせみの声がにぎやかにするので、きっとセミの抜け殻もあるだろうと思って、散歩の途中で探していますが、日本なら何処でも容易に見つかるそれが、今のところ発見できないでいます。地面ばかり見て歩いていたのですが、アリを一匹ようやく見つけただけでした。アリさえ北京には東京に比べて余りいないようです。
人間が生きている時間は古来から余り長くないと古人は表現してきましたが、これまで経過した時間を振り返ると本当に実感されます。
皆様はいかがでしょうか。
ここ数日東京は秋のように涼しいらしくて、猛暑の北京にいる僕としてはとても羨ましい限りです。
昨年からのツアーおよびトークショーにて、このところ何度も訪れた九州では、先日、記録的な豪雨により甚大な被害に見舞われました。被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げ、一日もはやい復旧をお祈りいたします。
既に大々的に報道されているようですが、一昨日(2012年7月21日)、北京も集中豪雨に見舞われました。 僕は、丁度降り始めた夕食時分に、今秋放送予定の番組のNHK関係者の方と繁華街へ予約していた食事に出かけた時でした。すでに猛烈な雨の中、普通のタクシーは拾えず、ずぶ濡れになって、ようやく二人乗りの三輪車の後部シートに3人無理やり乗り込んでやっとの思いで目的地に着きました。
帰りもタクシーを待って、暴風雨の中来月ビデオ撮りの参考にと、ある場所を下見に行こうということになったのですが、それどころではなく、行きと同じように普段の8倍の料金を支払ってほうほうの体で帰って参りました。
上海に引き続き、いかにも「嵐を呼ぶ男」の異名に恥じない僕ですが、小さな幌がけの三輪車が転倒もせず、交通事故にも遭わず、無事我が家へ辿り着けたのはやはり、また、釈迦、キリスト、アラーのお加護かと感謝しています。
今回の北京の大暴雨は何でも中国解放後初めて、60数年ぶりとのことだそうです。街のメインストリートの環状2号路では車中道路上で溺れ死んだ人まで出たということです。
みなさまには、たくさんのメールをいただき、ご心配おかけしました。無事です。ありがとうございました。
香港に来てから買った航空券で、午後二時前の便で四時前約2時間で上海は浦東飛行場に着きました。飛行場に着陸前からすでに飛行機の窓は雨に濡れ、窓外は雨雲が垂れ込めていました。
飛行機に預けたトランクを受け取って、飛行場の出口を出た頃は午後四時半ごろでした。北京の空港は常にタクシー待ちの乗客が長い列を作って何時もうんざりするのですが、上海の飛行場は、確か前回ほぼ5年前に来たときもそうでしたが、いつもさほど待つこともなく頻繁にタクシーは来るようです。
といいますのも上海浦東空港から街の中心まで遠く、北京よりもタクシー代が3倍くらい高く、市内に入っても常に渋滞がすごく結構不便であるから乗客も少ないのでしょう。今回は香港で買い物をした荷物が重くなり、乗り換えの面倒さを考えて高速鉄道を利用しないことにしたのです。
目的地の市内のホテルまで最低1時間、最高2時間の積りで乗り込みましたが、高速道路を走るやいなや、行く手の空はどんどん暗くなり、大粒の雨が降り出しました。雨は止む気配はないどころか水道の蛇口を全開にしたような勢いで、フル回転の車のワイパーすら間に合わない激しさで、これ以上運転もできないほどでした。これまで僕も長い間生きてきましたが、経験したことのない暴雨です。
昨年7月の講演会、同9月からの沢田研二のライブツアー、また今年2月からのトークツアーで「嵐を呼ぶ男」として実証済みですが。タクシーの運転手もこのような豪雨は初めてだと半ば恐れ半ば嬉々としていました。それでも途中ほんの少しと停車しましたが何とかその長時間に及ぶ集中豪雨を乗り切ることができました。僕は雨による路面の増水で最低でも2,3時間は通行不能になるのではないかと恐れていました。
その後、その恐ろしい雨後に死の恐怖を感じました。暴雨を乗り切ると、予想だにしていなかったのですが、運転手が蛇行運転をし出したのです。二車線の道路のラインを跨ぎ時に右に時に左にフラフラ走るのです。運転手を座席越しに見ると、何と目を閉じて運転しているのです。こんな経験も1971年1月24日武道館での最後のコンサートを終え、ザ・タイガースを辞め、その夜京都へ帰るトラックの中で東名高速道路でしたことを思い出しました。このときは車に乗っていた三人全員が僅かな時間ですが、走行中眠っていたのでした。
勿論、その後この居眠り上海ドライバーに再三注意したのですが、それでもその後何度も眠りました。きっと過度な緊張の後の安堵なのでしょうか。ところが僕にとっては今や嵐の恐怖よりも運転手の眠り方が更に強烈な恐怖に変わったのでした。
それでも、何とかどうやらこうやら無事に午後5時半ごろ目的のホテルに着きました。神の加護に感謝します。
夜北京へ戻って参りました。
湿度・温度的には香港→上海→北京と低いようです。皆様は如何ですか。
みなさんこんにちは!
今回中国北京へは今年4月天津へ来て以来となります。7月4日にほぼ日本での引越しを終えて、5日の日に参りました。当地は梅雨がないとはいえ、天候は蒸し暑く、緯度的には北京は東京よりはるかに北にありますが、このところの気温はほとんど真夏の暑さで、連日30度前後で夜は寝苦しく、現在は東京の方が梅雨時とはいえはるかに凌ぎ易いようです。
今回の北京は長逗留になりそうです。今回のように長い逗留は昨年の6月以来ですから、我が家の食材関係のものはもうとっくに賞味期限が過ぎており、また新たに買い揃えないとならなく、ほとんど6、7日の両日買い物に明け暮れました。ようやく生活の基盤が整備されたのですが、自分でもその落ちかなさにあきれ、きっと皆様もそのように思われるでしょうが、8日から香港へ旅行しました。昨年9月からの沢田研二ライブツアーも今年1月に終わり、その後台湾へ行きましたが、今回も同じ中国圏の旅行となりました。
僕は北京の賃貸のマンションに住んでいますが、また、部屋の持ち主が売却によって変わりそうで、新しい大家がもし立ち退きを迫れば引越しをしなければなりません。先日東京で引っ越したばかりですから、またぞろ引越ししなければならないとなるとさすがに引越しは気にならない僕でさえいささかうんざりします。
ほとんど5年ぶりに香港の新空港へ降り立ちました。その昔空港は九竜サイドの街の中心にあり、福岡空港のような便利さで、さらにはビルの谷間を離発着してなんともスリリングでしたが、今ははるか郊外にあります。
北京からひとっ飛び香港へ来ましたが、さすがに亜熱帯その蒸し暑さは北京の比ではありません。
初めて香港へ来たのは1982年北京留学中、中国の旧正月の休みを利用して日本へ帰国する際で、まっすぐ北京から成田へ飛行機で帰るのは味気ないので、北京から長距離列車で広州まで来て、深圳で香港行きの電車に乗り換えたのでした。おおよそ二日がかりの行程でした。そのときはまだ中国も外国人の渡航を認めて間もなくの「改革開放」の始まったばかりのころで、モノトーンの市町村、埃っぽい黄土の大地を長時間通り過ぎてきた目には夕方終点の香港九竜駅に着いたときはまるで巨大な宝石箱の中のすべての宝石をぶちまけたようにキラキラ輝いていて、まったく別世界に来たように目を奪われました。
「食在広州」(食は広州に在り)といわれるほど広州は中国の中でも、中国料理を代表する地です、その地広州の中でも香港は最高です。中国料理の最高の素材、腕の良い料理人、味にうるさい客の集まるところです。ですから当地は中国料理では間違いなく世界一だといえます。
「椒鹽瀬尿蝦」(シャコ《蝦蛄》のから揚げガーリック・唐辛子炒め《「竹園海鮮飯店」九龍尖沙咀支店》)のシャコ料理は日本の蝦蛄の五倍はありそうな大きさですが大味でなく、素揚げして、粉唐辛子・山椒で炒め塩で味付け、カリッと揚げたみじん切りのガーリックをテンコ盛りにかけた辛さのきいた香ばしいさがあります。中でも特にメスが美味です。
フカヒレやアワビは食材として高価ですから食べませんでしたが、蝦や蟹は単に茹でたり蒸したりするのもいいのですが、辛く炒めてチリソースかなんかで食べるのもやはり中華風でいいですね。
香港のデズニーランドへ行ってきました。東京のデズニーランドへは息子たちが小さいころに何度か連れて行きましたがそれ以来のことです。規模は日本のそれより大きくなかったのですが、行ったのが丁度正午前、天気が余りによすぎ熱かったのでざっと園内の入り口附近を見ただけで電車に乗って香港島の中心セントラルへ戻り、それから湾仔にある「福臨門魚翅海鮮酒家」本店へ行きました。
この店の九龍店も昔子供づれで行ったことがありますが、アワビ(日本産乾燥物)も注文し、極めて美味しかったのですが、四人家族でそれぞれ一口程度しかないほど小さいのですがそれだでも一個で3万円もしました。
ここの料理は大変有名ですが、値段の高いことでも有名です。ただ昼時の飲茶はそんなにも高くはありません。セイロに入って出てくる点心類はどれも上品で洗練された味でした。今回主食は焼きソバ(炒麺)にしました。飲茶で焼きソバはと少々ためらいましたが、食べてみたら貝柱(乾燥)のそれが絶品でした。やはり最後の〆はこの店元祖発祥の「マンゴプディン」(芒果布丁)、本当に「口福」を享受しました。皆さんに食べさせてあげたいものです。その内一緒に参りましょう。
香港デズニーランド・海鮮料理・飲茶・街の風景の写真・音声などをアップいたします。どうぞ僕と一緒に旅に出た積りで楽しんで頂けたら嬉しく思います。
つづく
大変な長らく皆様にご無沙汰して、サイトに書き込みがなくご心配をおかけしました。お陰さまで変わらずに元気になんとかやっています。人生長く生きていると様々な事がありますね。最近起こることに自他共に痛感します。
さて6月1日渋谷大和田さくらホールで最後のトークライブを終え、その前後からでありましたが、次回のレコーディングに取り掛かっていました。
リリースは秋になる予定ですが、一曲は「楽しい時は歌おうよ」曲・詞とも自作です。
もう一曲は「一枚の写真」で僕の母親を歌ったもので、拙著『ロング・グッバイのあとで』にも掲載したものです。詞・曲とも本来自作でしたが、どうも曲が気に入らないために、森本太郎に作曲を依頼しました。またもう一方で別の作曲家の方にも作曲を依頼していました。結局は太郎の曲の方が僕にはよいように思われ彼の曲に決めたわけです。
自分で言うのもなんですが、レコーディング前に太郎のメロディーに乗せて何度も何度も練習したのですが、そのたびに思いが溢れて冷静な感情ではなかなか歌えませんでした。
また、この2曲は映像でも前回同様「苦い蜜」の亀田幸則監督に撮ってもらいましたので、CDと共にDVD版にもなる予定です。
更に、アメリカ(日本明治期)の歌を一曲(英語《原語》、中国語《僕の自作の詞》、日本語《同自作の詞》)、もう1曲は同時期の歌を半分はアメリカ(原詞・原曲)、半分は日本の僕の(創作詞・曲)で吹き込みました(これは先の2曲のあとにリリースしたいと思っています)
更に更に、以前中国は北京で録音した中国人「田原」による(曲は原曲アメリカ、英語、及び中国語《僕の中国語創作詞》)の曲2曲も併せてやっとリリースするかもしれません。どうぞその節は宜しくお願い致します。
ところで、レコーディングの後、僕は急遽引越しを決めました。おおよそ、京都・大阪・東京・北京・埼玉・千葉などに転々と移り住んで、ほぼ30回目の引越しになりました。今回は比較的一箇所に長く、丁度3年間住んだことになります。だからその分引越しは大変でした。それでも今回は僕の事務所、「オフィス二十二世紀」の多くのスタッフの協力を得て、過度に疲労することなく無事に終えることができました。
思えば3年前の引越しのあとの脳溢血、10年前の引越しのあとの劇症A型肝炎の悪夢が思い起こされます。だから今回は出来る限り無理をしないようにして、スタッフの世話になりました。それでも7月1日転居しましたが、やっと今日になって一段落しました。ここに皆様にお知らせいたします。僕の引越し癖はこれも病気かもしれません。
皆さんに対しての長い不義理どうぞ悪しからず。
みなさん、こんにちは。
2月17日、東京・日本橋三越劇場から第1回としてスタートした、「老虎再来」瞳みのるトークライブも、6月1日、東京・渋谷大和田さくらホールで第21回の最終回を終えることができました。ここにみなさまにご報告申し上げます。
北は北海道の札幌から、南は九州の熊本、四国の高知、そして東海道や山陽道、奥州街道を行ったり来たり、その間、実に多くの皆さんと直に触れ合うことができました。
また各地の風土や食べ物に親しみつつ、皆さんに歓迎していただいたことは忘れることができません。
長時間待っていてくださった方、長旅で会場まで来てくださった方、などなど、ただただ頭が下がるばかりです。
皆さんの声援や笑い声、いただいたお花、お手紙、お菓子やお酒などなど。感謝の言葉もありません。
この場をお借りして、あらためて御礼申し上げます。
昨年から今年にかけて行なった、タイガースの旧メンバーによるコンサートツアーとは違い、今回はたったひとりの旅であり、トークを連続してやるのも初めてでしたから、かなりの緊張を強いられましたが、無事にこうして終えることができました。
昨年の震災以降、「絆」という言葉がよく聞かれますが、私も皆さんとの各地での「絆」を大切にして、こつこつと我が道を歩いていきたいと思っています。
どうか皆様におかれましても、ご健康で楽しい毎日を送っていたただきますよう、心からお祈り申し上げます。
タイガースが結成されて40数年ですが、今回を折り返し点として次の40年、いっしょに頑張っていきましょう。
思いは22世紀まで続くように。
2012年1月24日武道館で今回のツアーが終わり、若干の後片付けと今後の活動の準備を済ませて、自分に対する慰労ということもあって、2月4日から7日まで台湾は台北へ行ってまいりました。この旅行の参加は1月中旬急遽決めたものでした。
昨年からのツアーが無事に終わりそうになり、その後今年の2月から始まる仕事への気分の転換のためでした。ところが、2月13日~15日まで三日間NHK BSⅠ「ほっと@アジア」と2月17日から始まるトークライブのことが絶えず気になり、旅行に出ていても頭の中はそのことばかり考えていて結局余り楽しめませんでした。
ツアーは沢田、森本、岸部らメンバーと一緒でがやがややっていればよかったのですが、講演会は昨年7月に一度やったとはいえ、一人で話しその内容も以前のものと異なりますから、やはりそれだけプレッシャーを感じていたのです。
以下のことはそのせいにはしたくないのですが・・・。
今回旅行ツアーは総勢6名で、香港から1人(2009年雲南への旅行で僕が脳梗塞で倒れたとき適切な判断で命を救ってくれた恩人)、長崎から4人、東京から1人(僕)がそれぞれの地から飛行機で現地台北桃園飛行場集合となっていました。
本来は、あえて本来と言いますが、成田から10時発エバー航空の台北行きに乗り、現地へは13時につく予定でした。当日飛行機には間に合ったのですが、京成スカイライナーに乗って成田につく前にパスポートを持ってきてないことに気付いたのでした。
さすがに僕は焦りました、みんなの予定では12時に桃園飛行場に着いて、13時に着く僕を待ってそれから車(チャターしたマイクロバス)で約2時間の距離にある台北市の南東宜蘭市の礁渓温泉へ出発ということになっています。
5人を1時間空港で待たせるだけでも悪いと思っておりましたが。また飛行機に乗れなかったので旅行を中止しようとも考えましたが、たとえ遅れても約束を反故にすることだけは、男が一旦言い出した以上絶対にしてはならないと思い直し、たとえどんなことがあっても行く覚悟を決めました。香港の友人はこの夜、一ヶ月前でも容易に取れない鉄板焼きの台北市にまで聞こえる大変有名な名レストランを予約していてくれたのですからなおさらです。
結局はその飛行機には乗れず、家にパスポートを取りに戻り、今度は羽田から12時15分発
台北松山空港15時着に何とかチケットが買えて乗ることができました。勿論最初に買ったチケットは往復とも無効、新たにまたチケットを正規料金で買うことになりました。とんだもの入りです。人生長く生きてきますと恥が多いものですね。
空港に着く前に携帯から連絡を取って、こんな2時間も3時間も更にまた別の空港へ行って待たせるのはなんとも心苦しいので先に行っていて欲しい、後からタクシーで追いかけるといっておきました。僕が空港に着いたら、彼らは先に行っているから、また目的地を知らせるからもう一度電話しろとの指示だったので、台湾元に両替もしないで指示通り携帯で電話を掛けたら、ともかく先ずタクシー乗り場に行けとのこと。タクシーをつかまえようと空港の玄関を出た瞬間、なんと彼らは全員立って僕を待っていてくれました。
ビックサプライ、持つべきものはやはりよき友ですね。感謝感謝!
台湾といえば、1982年中国は北京留学中の春節(旧正月)を利用して日本へ一時帰国した際に、北京駅から汽車に乗って先ず香港に出て、そこで学生割引のディスカウント航空券を買い初めて台北を訪れたのでした。もうすでにあれから丁度30年は経っています。
北京の街はその頃自転車で溢れかえっていましたが、台北の街は50ccの日本で言うところの原動機付自転車がやたら多く、空気が車の排気ガスで汚れ街の騒音でひどく、がさがさと落ち着かないような気持ちになったものでした。
その後、この街の変貌は目を見張るものがあります。台北市にも「101」ビルがあり、名前だけでは渋谷の居酒屋「玉久」!の隣「109」を連想させますが、このビルは数字どおり101階建でとてつもなく高いビルです。勿論、「馬鹿と煙は高い所が好き」という言葉どおり僕も大好きで昇りました。
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