武道館はザ・タイガースの前身、ザ・ファニーズの時代から僕らにとっては特に思い出深く、かつ多い場所です。最初に来たのは1966年6月ザ・ビートルズの東京公演を見たときで、その後1966年11月ザ・タイガースとなってから幾度か武道館の舞台に上がったことはありましたが、自分たちの単独コンサートとしては1971年1月ザ•タイガース ビューティフル•コンサートが最初で最後になっていました。
その後、僕は音楽の世界から離れて、もう二度と武道館とは縁がないものとして学生生活、教員生活をしていたのですが、東京は赤坂御所の南に10数年住んでいた関係で、散歩の際によく皇居の竹橋は北の丸公園内旧近衛師団司令部から武道館の傍らを通り、田安門を通り抜けて九段坂へと歩いたものでした。あるときは千鳥が淵でボートを浮かべたり、濠端にあったフェアモントホテルでお茶を飲んだり、桜の頃は花見をしたりしたものでした。
そうそう12月の年末矢沢永吉が毎年このホールでコンサートを開いていて、大勢のファンが武道館前にたむろしているのを他人事のように眺めたものでした。まさか以前の思い出深いこの地でその舞台に上がるとは夢にさえ思いませんでした。
今回、41年の歳月を経て会場に入りましたが、一番最初にザ・ビートルズを見たときや自分たちが演奏をしたときに比べて、小さく思われました。あの時は何だかものすごく大きく思われ、だれであれどのようにしてもその空間は埋められないのではないかとさえ思っていました。
それが今回どうして小さく見えたのかわかりません。「永ちゃん」のように自分が「ビッグ」になったとは思いませんが。
2012年1月24日は、東京都心部でも今冬事実上の初雪、陰暦で迎える中国旧正月の元旦は一年で最も寒い日といわれ、今年は1月23日がその日にあたり、今日はあたかもその翌日となりました。おいらはドラマー、「嵐を呼ぶ男」と異名(?)をとる僕は今回9月から始まったツアー期間中に、様々な異常気象をもたらしましたが、果たしてこの日も大雪が降りました。
号砲一発、今回「Justine」という曲が終わると同時に、舞台でも銀の雪が舞い散りました。
始まりあれば終わりがあるように昨年9月からの全38公演は夢のように過ぎました。あの炎暑の頃四人で練習を始め、それがこの厳寒の今幕を下ろしました。あの暑い8月の半ばごろ、練習好きの沢田に合わせて、演目27曲の通し練習を一日3回もやり、死ぬほど苦しかったことを、今では懐かしく思い出します。それゆえに武道館コンサート後に挙げた祝杯は一仕事やり終えたときの満足感が皆には強く感じられました。
僕たち今回の四人はすでに60歳を遥かに過ぎているにも関わらず、大きな病気をすることなく、
ツアーの最後まで来ましたが、岸部は最終日の前日にとうとう風邪を引いてしまいました。これまで気力でここまで来たに違いありません。でもこの後しばらく休んで、また元気になってくれるでしょう。
7月末のリハーサルのときから長い時間行動を共にしたわけですが、沢田にはお酒の飲み過ぎ、
岸部には身体をいとうこと(腰痛)に注意して、四郎には先ず精神面で立ち直って欲しいと思っています。ともかくも、太郎や克己も含めみんな健康で長生きして欲しいと思います。
僕たちザ・タイガースにとってこの武道館は大事な思い出をこれまで保管してき、これからも保管していく特別な場所になるでしょう。それは勿論僕たちを支持してくれるファンの皆様にとっても。
打ち上げは、やはり銀座界隈(昨年2度会場として使った国際フォーラム・1971年ザ・タイガースさよならコンサートの打ち上げ会場である有楽町のチャンコ料理屋など)、その後の二次会は(誰も意識しませんでしたが)、なんと図らずもザ・タイガースゆかりの地、目黒(ハイツ)方面でした。
太郎はある雑誌のインタビューで武道館のコンサート後、次のように言ったと聞いております。
「無事38公演が終えられてホッとしている。
ピーの身体のことが心配だったけれど元気で良かった。
ビューティフルコンサートのメンバーが1月24日に再集結したという思いよりも
当日までシローがどうなるかわからなかったので、
シローを見守るという意識のほうが強かった。
武道館が41年前よりもなぜか狭く思えた。
打ち上げは41年前の時とまるきり違うムードで明るく楽しかった。
今回のツアーは本当に楽しかった。」
このようなコメントを聞いて、僕はいかにも太郎の優しい人柄を表しているようだと思いました。僕も全く同感です。恐らく沢田研二や岸部一徳もきっと同じ思いでしょう。今回は僕たちの気持ちが一つになり、その気持ちが皆さんの気持ちを一つにし、その皆さん気持ちが僕らを更に一つにしたのでしょう。
今回のツアーが曲がりなりにも成功裏に終えることができたのは、何度も言いますが、先ずはファンの皆様の温かいご支援の賜物です。また、今回のコンサートで我々の演奏を支えてくれた鉄人バンドの皆さん、ライトの当たらないところで様々な仕事をしていただいた舞台裏の関係者の皆さん本当に有難うございました。
衷心感謝!
これまで長く僕のピンボケ写真と駄文にお付き合いくださり有難うございました。最後に恒例となり、僕のテーマになりました今回「川・塔・城・食」などをメインとする「フォトと文」の最終版をご覧ください。
(1)・(2)(2012年1月28日、以下は写真の番号)千住大橋(隅田川)
松尾芭蕉は、元禄2年(1689年)、江戸深川は隅田川に架かる新大橋付近の芭蕉庵から「奥の細道」に旅立ちました。
「月日は百代の過客(かきゃく)にして、行かふ年も又旅人也。・・・」
芭蕉の冒頭の文は、李白の『春夜宴桃李園序』の文
「夫天地者萬物之逆旅 光陰者百代之過客 而浮生若夢爲歡幾何」(天地は万物の旅館であり、そこに流れる時間は永遠の旅人である。人生は夢のようであり、楽しめるのはわずかな間しかない《だから楽しめるときに大いに楽しもう》)に基づいています。
だから、僕なら南千住で下船したら、小塚原回向院そばのうなぎ屋「尾花」へ行ってから、日光街道へ出ます。あーすみません「尾花」はまだその頃創業していませんでした。
(4)言問橋(隅田川)
言問橋から見た「スカイツリー」、「言問」という名称は在原業平の詠んだ、
「名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」という歌にちなみます。(都鳥よその名の通りならば尋ねてみますが、恋しく思っている人は京で元気にしていますか)
今では「花より団子」、この地にある言問団子店が有名です。勿論ここは明治からですからそのころはまだ創業していません。
(5)神田川・(6)神田川河口
以前、この神田川の河口柳橋に2~3年住んでいました。毎日隅田川を上り下りする船を見ながら、1日のんびりするのもいいものです。ここは神田川の河口で柳橋でしたから、三味線の音は聞こえても、南こうせつとかぐや姫の「神田川」の歌は聞こえてきませんでした。
(7)両国橋(隅田川)
この橋を東に渡ると本所で、「忠臣蔵」では討ち入られて有名ですが、吉良上野介の下屋敷があったところです。
その北には国技館があり大相撲のときはことに賑わい、やぐら太鼓の音も響きます。
(8)上野恩賜公園
今年1月8日鹿児島で軍服を着た西郷さんと出会ってからの私服での彼との再会でした。やはり彼は犬を連れている方がピッタリしているようです。
(9)旧江戸城田安門(北の丸)
(10)武道館
(11)千鳥が淵
(12)・(13)江戸(千代田)城 内堀
これまでに見てきたお城の中ではダントツで大きな城でなんと世界一だそうです。北京の故宮(紫禁城)も相当大きいので見て回るのにくたびれますが、江戸城の広さは破格ですね。
(14)丸の内国際フォーラム
ここでは、今東京ツアーで二回開催しました。その第一回目が昨年9月8日で今回の初日に当たり、大変な緊張の中全38公演の最初の演奏を無事終えて、岸部が後37回になったと言ったのが大変印象的でした。これより毎回カウントダウンが始まりました。
(15)・(16)東京タワー
東京タワー、上野公園(西郷像)、江戸城などへは中学三年のとき修学旅行で岸部と共に来て記念写真をそれぞれの箇所で撮りました。今僕の手元に残っているのは上野の西郷さんと取ったものだけです。
今でもタワーの下を通りかかると南極探検隊のタローとジローが銅像となっていますが、僕たちが行った頃にはいたのでしょうか。それはともかくも当時のことが懐かしく思い出されます。班が違っていましたが、元虎で人間のタローも一緒に行っているはずです。
(17)野田岩
また、うなぎ屋が出て来ましたが、ここは東京タワーの下、東麻布にあります。一昨年の土用の丑の日にたまたま食べたくなって行ってしまい、二時間半待ってやっとありつけました。そんな日に食べるのも考えものですね。
(18)・(19)丸子橋(新丸子駅、多摩川)
たまリバーはどちらかというと東横沿線の自由が丘辺りが、横浜の同じ東横線日吉あたりで勤めている我々慶應の教員にとっては便利だったので、よく渋谷への帰宅途中下車して、一杯やることが多かったのです。でもまさか、以前から沢田が僕に会いに来てくれているとは夢にも知らなかったのでした。
線路は戻りますが、この新丸子駅(上り)東隣の駅が田園調布、かつての田園コロシアム、ここでコンサートをしたことがありました。今はテニスコートになっています。そして次の駅が先ほどの自由が丘駅です。
(20)・(21) 日本橋・
2月17日三越本店本館6階三越劇場で僕の講演会が行なわれます。準備はじょじょにしていますが、もうすでに皆さんが謹聴してくださると思うと緊張しています。宜しくお願します。
ようやく、双六は日本道路元標の振り出し地点になりました。
僕は以前上野は湯島近くに住んだことがあり、近くの池之端、不忍池を散歩するのが好きでした。この地の蓮の花は背が高くて大きく、多くの立派な花を咲かせます。冬には鴨が飛来して、池のおちこちに見られます。花より団子というわけではありませんが、冬場の鴨を見ると、中国人ではありませんが、またフランス人でもありませんが野鳥料理としてのジビエ(仏: gibier)や焼き鳥の「鴨ねぎ」焼きを連想して野鳥の観察より、旨そう鳥だなぁとついつい思って、できれば一羽失敬したいと何時も思ってしまいます。
今回の大阪公演は前乗りして1月21日夜に入り、姉の家に泊まり、翌朝姉婿と二人で家の近くにある四天王寺に散歩に行って来ました。この寺は日本最古(593年)の仏教寺院の一つで聖徳太子により創建されました。
ここで思い出しますのは、以前に読んだ確か桂枝雀の「四天王寺の鴨」とかいうような内容の落語でした。
「鴨を捕まえて鳥屋に売りさばこうという男がいて、鳥は鳥目で夜は目が見えないからと夜陰にまぎれて、鴨が夜池で寝ているところ、寝込みを襲い摑まえ腰に巻いた縄に首から無数に通して吊るしぶら下げたのでしたが、夜も白み腰に吊るした鴨たちが起き出し、一斉に羽ばたき空高く飛んでしまいます。男も共に舞い上がったのですが天空に棒が一本見えたのでかろうじてそれに摑まりました。気が付くとそれは四天王寺の五重の塔の九輪で男は腰を抜かし結わえていた鴨をみな逃がします。
地上では五重の塔の天辺に男がいるので、人が集まってきて大騒ぎになり、降りられないから飛び降りて来いと人々は口々に言います。
そのうち、四天王寺の坊主が布団を持ち出してきて、四方をそれぞれしっかり持って、ここに飛び降りろと勧め、男は意を決して飛び降ります。降りたところはピーンと張ったふとんの丁度真ん中だったので、その男は無事だったのですが、四人の坊主は互いに頭をぶつけて、目から火花を散らし、その火が布団に燃え移って火事になってしまう。・・・」というものです。
この上方落語も東京版にもありますが、実に話は荒唐無稽ですが、面白いのです。
この四天王寺の境内には亀池があり、たくさんの亀が水に浮かんだり、甲羅干しをしたりしています。亀は動作がウサギに比べるまでもなく緩慢で見ているだけでこちらの気分ものんびりしてきます。毎日勤勉なウサギのような生活をしている人にとっては少しは癒されるのではないでしょうか。
亀と言えば思い出すことがあります。僕の教員時代の同僚で中国人女性と結婚したのがいますが、結婚式を日本で挙げたのですがその式の際、大変な日中文化問題が起きたそうです。
何でも、披露宴で日本人新郎側一同を「鶴」の席にし、新婦側中国人親戚一同を「亀」の席にしたのですが、中国人の新婦側はその席に座らせられてカンカンに怒り出したそうです。
というのも、中国では亀はおめでたくないばかりか、「王八」(=「忘八」と同音で、八つの徳目《孝・悌・忠・信・義・礼・廉・恥》を忘れた者の意)」といい、ののしり言葉を意味しているのですから。
また、亀は甲羅が厚く親亀の背中に小亀、小亀の背中に孫亀などと言う戯れ歌もありますが、亀は馬鹿で自分の甲羅の上で女房が間男されていても気が付かないと言うわけで、いつも馬鹿にされる対象なのです。
しかし、一般中国人の庶民は亀に関してはこのように考えますが、本来中国古典ではやはり、「鶴」は千年、「亀」は万年といい長寿の象徴的生き物として崇められていたのです。現代の普通の中国人はこんなことなどほとんど知りませんから、上記のようなことが起こるのです。
また四天王寺と言えば 昔 松竹芸能が吉本興業より人気があった頃 漫才師平和ラッパ(先代)日佐丸がよく言っていた四天王寺の亀さんが懐かしく思い出されます。「天王寺の亀の池の亀は(豆が)カメマンネン」と駄洒落で言っていました。
ところで、今日は一時半に会場入りしなければならないので、姉の家でブランチを済ませて、姉婿の車に乗せてもらい早めに出かけました。先ず以前に写真をアップしましたが、大阪城を模したラブホテルのこと覚えておられますか、今回はそのすぐそばにある天王寺動物園の傍らの茶臼山を尋ねました。
大阪冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、大阪夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い」の舞台となったことはよく知られています。
その後大阪を代表するお城、大阪城に向かいました。これまで、今回のツアーで多くのお城を見てきましたが、城壁の大きさ、高さという点ではこのお城が日本で一番でしょうね。さすがに東西二大都市の一翼、東の江戸城に対して西の大阪城です。小学校の遠足で来て、城壁のそれぞれの石の大きさに圧倒されましたが、中でも本丸の正面入り口(桜門枡形)の巨石は超弩級ですね。
大阪人が大きなものが好きで表現もオーバーなのもこれを見ていればうなずけます。ここで、大阪でも有名なうどん屋の写真をアップします。食い倒れ大阪の名に恥じず、面目躍如足るものがあります。
最後に、その昔花見に行った造幣局構内旧淀川沿いの桜並木の道をアップします。
毎年桜の開花時には、全長560mの通路を一般花見客のために開放され、明治16年に開始して以来「通り抜け」もすでに百数十年続き、浪速の春を飾る風物詩として、人々に愛されています。またそのころ来てみたいですね。。
思いがけずに、昨年の2011年7月から今年の2012年1月までのわずか半年の間に5回以上も京都へ帰ることになりました。これは京都での講演会や演奏会などのためで、それまでは1993年父の死後、遺産相続の件で頻繁に帰郷して以来、その後京都へも帰る家がなくなり、勢い中国へ行くことが多くなったわけですが、そのせいもあり故郷とも疎遠になっていましたので、僕にとって今回の京都はことのほか懐かしさや愛着を感じました。
今ツアーの1月24日の武道館公演終了後、僕のトークライブが2月17日東京日本橋の三越劇場から5月27日神戸朝日ホールまで全国20会場で開催されます。
今回の報告は、その振り出しとなる全国への道路元標のある日本橋にちなみ、東海道五十三次、道中双六では、上がりとなる京都三条大橋からしてみたいと思います。
逢坂の関を滋賀県側から越えれば京都です。この関は、百人一首でも二つの歌で詠まれています。
「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」蝉丸(第10番)
「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」 清少納言(第62番)
逢坂の関から来れば、最初の大きな川が加茂川で、そこに架かる橋が三条大橋です。この橋を渡りすぐ左川のたもとに「珉珉」という赤字で大書した看板が見えてきます。餃子が売りの中華料理店です。この店は恐らく餃子の皮の薄さでは日本一だろうと思われます。確か以前にも書きましたが、皮が薄いので何人前でも食べられるのです。誰ですか「カワが薄いほど味わいが敏感になる」なんて言っているのは?
それはともかく、ザ・タイガースがまだザ・ファニーズと名乗って大阪のナンバ一番というジャズ喫茶で活動していたとき、夜遅く大阪で仕事を終え淀屋橋から京阪電車に飛び乗り、京都三条京阪駅で降りて必ずと言っていいほど直行した店です。
この店の前は加茂川ですが、この川べり、特に三条から四条にかけては、冬場はやはり寒いので人も少ないのですが、いつもそぞろ歩く人が多く、土手には物差しで計ったように等間隔でペアのカップルが座って語り合う場所となっていることで有名です。
僕たちもその頃からよく時間があると、男同士であったり、時には女の子とも一緒に夜明けまで語り明かしたりしたものです。勿論、時には一人で時間つぶしをしたり、流れる川の水を見てぼっとしたりしていました。こんな川が繁華街のすぐそばにあるのが素晴らしいと思います。
孔子は『論語』で「子(し)川の上(ほとり)に在(あ)りて曰(い)はく、逝(ゆ)くものかくのごときか、昼夜をおかず」(孔子先生が川の畔に立っておっしゃった、「流れる水は昼夜を問わない」)と言っています。彼は水の流れを時の流れにたとえて慨嘆したのです。謹厳な孔子の「論語」の中にあっては珍しく詩的な趣があります。
鎌倉時代初の歌人・随筆家鴨長明(1155~1216賀茂御祖神社の神事を統率する鴨長継の次男として京都で生まれた)は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし・・・」と孔子の流れに沿っています。きっと加茂川を詠んだのでしょう。もしそうだとしたら、川の流れは紀元前の孔子から鎌倉の鴨長明、そして現在の僕へとつながっているようでとても嬉しく思います。
また、美空ひばりの「川の流れのように」では時の流れを河の流れにたとえています。そういえば、沢田の「時の過ぎゆくままに」もその流れにあるのでしょうか。時に流れに対する慨嘆も我々ザ・タイガースの「ラブラブラブ」もそうですね。
さて、次の橋を渡りましょう。三条大橋から西へ200mほどでしょうか、お座敷小唄の一節で有名な「先斗町」を越え、木屋町通りの西側を高瀬川が流れています。「高瀬川」といえば森鴎外の小説『高瀬舟』で有名ですが、もともと、江戸時代初期(1611年)に角倉了以によって、京都 の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河で、 二条大橋西畔から鴨川の水が引き入れられ,最終的にはまた加茂川と合流します。またその開削により伏見大阪間が賑わい 桂枝雀の古典落語「三十石夢の通い路」に 登場する「三十石船」が、同航路の乗合船の情景を舞台にしていることでも知られています。
この木屋町沿いにある飛び切り旨いものを提供している店を数店紹介してこの報告を終えます。これ以降のお話は割愛させて頂き、またの機会にお聞きください。
京料理では『志る幸』、「利休弁当」が有名ですが、多少値段は張りますが、アラカルトで頼んで、かやくご飯添えにしてもらうのが最高です。単品は今なら、「寒本もろこ煮」(焼いたものがいいのですがないようです)、「かぶら蒸し」、刺身は「鯛」が年中お勧めです。
漬物は『村上重本店』の千枚漬け、甘くなく極めて昆布の味わいが絶妙、但し日持ちはしないし、年中ないので少し残念です。これがあれば、他におかずは要らないでしょう。
最後に甘味屋ですが、『永楽屋』の「おはぎ」、粒餡で包んだものと粒餡を中に入れ黄な粉をまぶしたものの2種類あります。味は上品ですが、一つが大きく二個食べるとその日一日は何も食べられなくなりますので要注意です。
以上特選三店でした。
エビフライ、天むす、エビフライサンド、味噌カツ、きしめん、味噌煮込みうどん、ひつまぶし、手羽先、外郎(名古屋では大須ういろうが有名、唐代の詩人杜甫を「杜工部員外郎」と言う。杜甫の官位が工部員外郎にまで進んだところから。何だかこの名前は杜甫の詩を学んだものとしてはとても親近感を感じます)
名古屋はB級グルメ満載ですね。
でも今回は名古屋では、ラジオパーソナリティ 、シンガーソングライターのつボイノリオさんのお勧めで、彼や友人の坂田寿男君らと、日清戦争の講和条約である下関条約で使われた料理屋の名古屋支店でふぐを食べました。ふぐ刺しの「てっさ」は当然頂きましたが、「てっちり」鍋でない「焼きふぐ」で「ひれ酒」に酔いました。
名古屋は僕にとってはとっても思い出深い地で、中学3年生の夏、岸部修三(一徳)と僕の乳母のところへ遊びに行ったことがあります。僕は乳母とは小学生1年のときに生き別れ、やっとこのとき会うことができるようになったのでした。あの小学校で別れたときは悲しく、実際なんども家のそば南側を走る山陰線に枕しましたが、結局は勇気がなくて果せませんでした。実母が2歳のときに亡くなっていますが、その母の記憶が何もないので、これまでの別れの中では最も辛いものになったわけです。でも、この乳母との別れが逆に僕を強くしてくれました。それまでは誰かに頼って、特にこの乳母を母親代わりにして頼って守られて生きてきたわけでしたから。
今回別れた家族の乳母の子供で次女のSおばさんがコンサートを見に来てくれました。ほとんど乳母が亡くなって以来ほぼ40年ぶりの邂逅でした。
名古屋でコンサートが終わった翌日、大阪の姉から夜遅く電話をもらいました。僕はSおばさんに姉の携帯番号を教えたので、彼女は姉に電話をかけてきたとのことでした。
姉はその電話で言っていました:
「名古屋のSおばさんが僕の自伝『ロング・グッバイのあとで』(P95~)を読んで、《みのるちゃんがそんな辛い思いをしていたのなら、私たちが名古屋へ引越ししていくとき連れて帰ってあげたらよかったのに》と言い、そして《今でも強く抱きしめてあげたかった》」と。
僕はその言葉を聴いて熱いものが込み上げてきて胸が一杯になりました。愛情と言う面で
大事なものを失ったかもしれませんが、自立して生きていかなければならないことを学ぶことができたのです。Sおばさん本当に有難う。
僕が小学1年生以来、その家族はすべて名古屋へ引越しして来て、千種区に住んで長男は肉屋に勤めていた頃、クラスメートの岸部を誘って、京都駅から東海道線の鈍行に乗ってはるばる名古屋に来たのでした。
実に8年ぶりの乳母との再会でした。僕は彼女のことを「お婆」と呼んでいました。彼女は子供4人を育て上げ、アル中の亭主を持って苦労して、すでに能面の「老婆」(姥;うば))の面のように、年以上に老けて見えたので子供心にそう読んでいたようです。もうすでに他界しています。
このときは乳母は一家を挙げて歓待してくれました。当然僕たち二人の食べたいものを夕食に出してくれました。僕も岸部も乳母の長男は肉屋に勤めているですから、「すき焼き」を死ぬほど食べたかったのです。当然、夕食はすき焼きになりました。でも、その長男の家族、特にその子供の顔はまたかといった半ばうんざりした顔つきだったように覚えています。
僕らは勿論肉ばっかりを選んで食べました。一方彼の家族は野菜ばかりを選んで食べていました。岸部の家も大家族で経済的には豊ではなく、すき焼きと言えば豚肉しか食べたことがないので、このときとばかりにふんだんに牛肉を食べたのは言うまでもありません。
僕はこのときに思いました。すき焼きは「肉屋」の家で食べるのが一番だと。
名古屋公演の翌日、新幹線で東京へ戻ったのですが、その前に名古屋の街を探訪に出かけ改めて名古屋駅や栄町周辺は特に高いビルが林立し、東京、大阪、横浜などと並ぶ大都会だと実感しました。
コースは以下のようでした。
名古屋駅から桜通を東、名古屋国際センターを通り過ぎ、堀川という川の手前の道を北に少し行くと、「四間道(しけみち)」といい、古い町並みが続き、かつての名古屋城下の面影を残す街です。何だか古の時代にタイムスリップしたような素敵なたたずまいを持った一画でした。
その道を北に抜け、更に川沿いを更に北上すると右手に名古屋城が見えてきます。このお城はトラ退治で有名な熊本城城主の加藤清正が築城したもので、金の鯱が天守閣にあるのが有名です。ドラゴンの地にタイガーを退治した人間がいるのも面白いですね。彼は名古屋人ですから、きっと野球は中日ドラゴンズファンでしょうが、音楽はザ・タイガースファンでしょうか?
名古屋城の正門から入り東門に抜け、市役所、県庁の交差点を南下してしばらく行くと
左側にテレビ塔が見え、更に南下すると名古屋の繁華街の中心である栄町に到着します。ここまでの距離は約5km、徒歩約2時間程度、天気は曇り時々晴れ、風もなくぶらぶら散歩するには寒くもない今日の天気でした。
その後、栄町でコーヒーブレークの後、地下鉄東山線栄町駅から高畑方面行きの電車に乗って中村公園へ行きました。ここを訪れたのは、ほぼ100年近く前の古い遊郭の建物や町並みが若干残っていると聞いたからでした。何故か楽しげで、悲しげな、遊女と客、それを取り囲む人々の人間劇の舞台を見るよう気がするからです。京都では「五番町」、「島原」
大阪では「飛田」などこれまで見てきた何か共通する人間模様が浮かんで来ます。人間の営みの一面のある縮図なのですが。
今回も興味尽きない旅をさせていただきました。皆様大変有難うございました。
☆「群(む)れ去(さ)りし 一羽(いちわ)残(のこ)せし 水鳥(みずとり)の 水面(みずも)尾(お)を曳(ひ)き 後(あと)寂(さび)しくて」
上記はかつて1971年1月9日福岡大濠公園にて詠んだ短歌です。
1970年からの一年は、僕にとっては渡辺プロダクションと最後の一年間契約を結んだ年になり、ザ・タイガースの解散を控え、この歳も深まるにつれて、孤立や孤独を感じ、これまでの自分は一体何だったのかと一層強く思うようになったのでした。でも、この時の気持ちが、その後、明治期の曲に合わせた歌詞を創るようになって、全て現在僕のもとにまた違った形で帰って来てくれました。これはとてもとても嬉しいことです。その一節を皆さんにご紹介させてください。
2008年8月1日作 |
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一、 |
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翌朝、勿論目的は僕の旧友、旧遊の地、その大濠公園です。天(そら)はうす曇、風はなく厚手のセーターにマフラーぐらいで十分で、決してオーバーを羽織るようなオーバーな寒さではありませんでした。
「酒は飲め飲め、飲むならば、・・・」で始まる「黒田節」でお馴染みの、もうそんなにお馴染みではありませんか?!黒田城(福岡城)は、天守閣こそ今はありませんが、大きなお城で、堀の周囲は4,5kmあるそうで、早足で見て回るだけでもたっぷり1時間半はかかりました。
堀は博多中州の繁華街のようににぎやかで、渡り鳥の「鴨」や「ユリカモメ」を始め「アオサギ」、「カラス」などとりどりでした。
1月6日、結局福岡には二泊したのですが、初日は博多の南で「もつ鍋」を食べ、その後長浜の屋台へはしごして、餃子にビール、最後にラーメンで〆ましたが、その美味さに負けて、いささか食べ過ぎました。博多のラーメンは久留米がそのルーツだといわれますが、くるめい(前(めい))には行きたいと思っておりましたが、行く時間がないのが残念です。
また、福岡県南西部の柳川市は素敵な町で(少し千葉県は佐原に似ています)電車を降り駅から屋形船に乗って、料亭旅館「柳川藩主立花邸 御花」へ大学時代泊まりに行ったことがあります。この町も再再訪したい町です。ここの旅館に泊まったのは、柳川出身の小説家檀一雄の「火宅の人」という作品を読んだからでした。また、同地に生家のある詩人北原白秋にも以前から大変興味を惹かれていました。
檀一雄自身大変なグルメで、自分でも料理を作るのですが、確か自著の「檀流クッキング」では地元の有明海の珍味イソギンチャク、ムツゴロウなどを紹介しています。また、玄界灘の魚では「アラ」の「あら」が美味だと書いていて、コウトウネギという極細の青ネギのみじん切りを薬味にして「まる天うどん」に一杯ふりかけて食べるのが好きだとも書いています。
1月7日、長崎の友人が博多に来てくれ、中央区の小さなすし屋さんへ連れて行ってくれました。そこで食べて最高に旨かったのは「鰆」でしたが、どれもこれも地場のものが主で、まさしく味は玄界灘の限界を遥かに超えていました。
1月8日、鹿児島へ向かう前に博多駅でコウトウネギをたっぷりかけて「まる天うどん」を食べたのは言うまでもありません。
大宰府天満宮へ行けなくて学問の神様菅原道真公に大変失礼しましたが、ドラムを叩いていますからバチが当たらないように、一ファンの差し入れのご当地「梅が枝餅」を沢山食べて霊を慰め、餅はもうすでに硬くなっていますが、オーブントースターで温めては今も戴いています。
拍手三拝!!!
「花は霧島、煙草は国分、燃えて上がるは オハラハー桜島」と歌われますが、ご存知ですよね。民謡鹿児島おはら節、冒頭の歌詞の一節です。
今回鹿児島へやって来た最大の目的は、この民謡ではなくて、我々のコンサートですが、僕の第二の目的は西郷さんに会うためです。私人見豊(瞳みのる)と岸部修三(岸部一徳)は共に京都市立北野中学校3年8組の同窓生で、1960年中学3年の修学旅行で揃って上野公園で彼に初めて会いました。そのとき彼は犬を一匹連れていました。今回その51年後に鹿児島で揃ってまた会うことになったのでした。彼は律儀にもずうっと待っていてくれたのです。
最初に会ったとき彼は普段着で、僕たちは制服でした。今回は彼が制服で僕たちは普段着でした。「三顧の礼」ではありませんが、「二顧の礼」として彼には多少敬意を表して頂けたのかも知れません。
コンサートホールは、鹿児島中央駅から東北方面に当たり、甲突川(こうつきがわ;1993年8月豪雨災害を被った)を渡り左前方町にひょっこりそびえる城山の南にあり、その真裏こそ、鹿児島の西郷隆盛の銅像が屹立しているところなのです。岸部はそんなすぐ近くに西郷さんがいるとは知らなかったようです。実は僕も今回来てみてびっくりしました。西郷さんがこんな近くに居られたら、ここではいい加減な演奏はできないと今更ながら襟を正しました。
それよりもこんな機会は二度とないと思い、岸部に提案しました。こっそり演奏会場を抜け出し西郷さんと記念写真を50年ぶりに撮ろうよと。彼は喜んで同意してくれました。
3年8組ではありませんが、3年12組の森本太郎も喜んで一緒に参加し、さらには折から現在鹿児島在住で我々のコンサートを見に来てくれていたかつての北野中学同級の仲間2人も誘って記念撮影に出かけました。楽しかったことは言うまでもありません。全く思っても見なかったミニ同窓会の記念撮影会が急遽実現しました。
ともかくも、しゃれではなくとも鹿児島の街は西郷さんで始まりから最後まで西郷さんで終わるような印象を強く受けました。このような邂逅の機会もすべて西郷さんのお陰かなあととても感謝しています。
鹿児島公演は気温も高かったようですが、博多同様熱気に溢れたコンサートになりました。本当に皆さんの温かいご支援を身に染みて感じることができました。どうも有り難うございます。
夜は、哲人バンドのメンバーも含め、ご当地名物「黒豚のしゃぶしゃぶ」を食べに出かけました。当地の黒豚は脂身が結構多い三枚肉が主で、ロースもあるのですが、ポン酢で食べるせいかあっさりしていて、いくらでも食べられました。一番食べていたのはキーボードの泰輝、次いで箸が休むことなく動いていた沢田でした。
次の日は、我々ザ・タイガースの面々はそれぞれ別行動になりました。岸部は友人のTN氏と何でも、鹿児島県南九州市知覧町にある、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に編成された大日本帝国陸軍の特別攻撃隊に関する資料を展示する施設である知覧特攻平和会館(ちらんとっこうへいわかいかん)へ参観に出かけたようでした。
僕は親父趣味よろしく、十数年前の教員時代に訪れたことのある指宿温泉へ今回の自分への褒美として骨休めに行きました。
ホテルに入いりチェックインを済ませ部屋への案内を待っていたそのとき、傍らから立派な一人の紳士が僕の方へ来られて、人見さんですねと尋ねられた。僕はここへは人見と名乗らず、仮名で来ているので、誰も知った人などいないと思っていたのでひどく驚きました。
聞くと、今回の熊本公演の主催者が僕の指宿へ泊まることを彼に告げたということでありました。彼はこのホテルの経営者で、慶應高校の卒業生で歳は僕より六つ下ですが、慶応大学では1年先輩に当たるというわけで、さらに聞けば、その子息は「嵐」の桜井翔と同学年で、同じく僕の教科書で中国語を学んだという。まさか本州最南端に当たる指宿の地でこのような人に出会うとは思っても見ず、今更ながら不思議なめぐり合いになんだか教員をしていてよかったという思いが自然に溢れてきました。
勿論、このような思いがけない邂逅がなくとも、主催者が特に僕に推薦してくれたこのホテルに十二分に満足して滞在することができ、また今後もがんばろうという意欲がおのずと湧いてきていたでしょう。謝天謝地!
龍年快楽!
昨年は私的には疾風怒涛のように過ぎましたが、皆様には如何だったでしょうか。
さて、今年は辰年でまたぞろ《老虎再来》すれば、《龍虎相闘》うことになるようですが、やはり《中・日》との関係は信頼が重要で、全面《老虎》支持だといいのですが、《半信》半疑であってはいけません???!!!
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