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メッセージ from ひとみみのる


ツアー報告-横浜(12/23)

今日は天皇誕生日で祝日、クリスマスイブ前日ということで明日の土曜日がお休みだと、今年最後の三連休になります。
僕、岸部と彼の友人TN、太郎と彼の車を運転するSHの5人は、正午今日の会場となる横浜みなとみらいにある「パシフィコ横浜国立大ホール」に向けて東京渋谷を出発しました。車内ではみんな早速、出る前に太郎が買ってくれたテイクアウトのコーヒーを飲みながらハンバーガーにかぶりつき、朝から多少雲がありましたがほぼ好天の第三京浜をひた走りました。
やや下ネタが多いのですが、冗談好きの岸部の友人TNが同乗とあっては水が低きに流れるように、僕と彼の話の方向は勢いそちらに向かいます。岸部がぼそりぼそりと会話に加わることはいつもですが、最近では、太郎も随分と我々の冗談をよく解し合いの手を入れてきます。
それぞれが単独で会場入りしてもよいのですが、まとまって行けば会場入りの誘導に当たる方々は便利でもありますし、それ以上に会場入りの道中のひと時をみんなで楽しくよもや話をして行くのが実に嬉しいのです。
およそ、車での所要時間は1時間ほど、午後2時少し前に目的地「パシフィコ横浜」に到着しました。開演は午後5時、音合わせは2時半ということで、会場及び会場付近を探索できる時間がありました。会場のキャパシティーは4千人ほどとのこと、今回これまでのツアーでは東京国際フォーラムホールA、大阪国際会議場グランキューブと並んで大きなホールです。
公演後、慶應高校の以前の僕の同僚や友人、知人、先輩が祝いに駆けつけてくれました。彼らの公演の感想を聞いていると、9月8日開始以来そうなのですが、つくづくこのようなツアーを組むことによって皆さんに喜んで頂き有難く思われます。感謝感謝。
今日は本年最後の公演ということで、公演後、我々ザ・タイガース、鉄人バンドのメンバーを中心とする一行で食事会がもたれ、沢田の行きつけの横浜関内のすし屋に集まりました。場所はよくはわかんないです。今日は沢田夫人の田中裕子さんも一緒でした。今回のツアーにはちょくちょく会場に見に来られていますが、ほとんど楽屋付近で出会って会釈する程度で、今日のように食事を共にするのは9月8日の初日の打ち上げ以来となりました。本当に彼女は控えめでどちらかというとおしゃべりではないようです。静かな雰囲気を持った素敵な方です。
このあと、ほぼ全員二次会へ繰り出し、深夜午前2時半ごろまで飲み、岸部と彼の友人TNと僕はタクシーに乗って東京方面に帰りました。岸部と彼の友人は飲みすぎで、時折り車中にもかかわらず船を漕いでいましたが、結局僕が帰宅したのは午前3時半近くになっていました。長い1日のわりには、気が立っていたのか妙に肉体的に疲れを覚えませんでした。こんなに晩くまで飲んだのは、二年前雲南省で病気になって以来のことです。
この一年実に成功裏に疾風怒濤のごとく駆け抜けてまいりましたが、そのようにうまくことが運んだのも、すべて皆さんの変らぬご支持のお陰と厚く感謝しております。
これで2011年の公演はすべて終了しました。来年からも気を引き締めて皆様に喜んで頂けるようまた頑張ります。どうぞ2012年も宜しくご支援お願い申し上げます。

聖誕快楽!(shèngdàn kuàilè !クリスマスおめでとう)
過個好年!(guò ge hǎo nián !よい年を)

[photo]  横浜(12/23) >>

2011年12月25日 記

ツアー報告-秋田・(山形・)新潟(12/15、17)
秋田市(12月15日)

正午前、飛行機が羽田を飛び立ったときは晴天で、約一時間後機が降下準備を始めるときは、夕方のように上空は曇っていました。雲のまにまに消えては現れる地上、その山間部に吹きだまった雪が散見されました。もうすでに我々は雪国に来ているのでした。飛行場の外、冷たい風の中かすかに小雪が風に舞っていました。
秋田市内に入ると、雪は全くなくただ日本海側のどんよりとした北国らしい天候でした。ホテルで荷を解き、会場入りの前、例のごとく二時間近く時間があったので、ホテルの近く秋田駅でうどんをかきこみ、ホテルの部屋から見えた大きな堀へ散歩に出かけました。
堀があるわけですから、この近くに城があることが予感されました。
今日は12月15日平日の金曜日、秋田の街にあわただしさはなく、しっとりと落ち着いています。果たして掘りは、佐竹藩主佐竹氏の居城を廻るものでした。城内は今は天守閣はなく城の表門と、北西の隅に城内では最も大きな建物となる御隅櫓があります。現在この城址は公園になっていて、千秋公園と呼ばれています。
なんだかもうこの報告では決まりみたいになったようですが、城とくれば川です。今回全国を旅して随分と多くの町を見てきて、故郷というものを感ぜずにはいられませんでした。よく故郷といえば、山、川、海など、特に故郷の山川などと言いますが、考えて見ますと山や海を持たないところもあるわけですから、故郷の山河というのは必ずしも併称されるものではないのですね。
僕の言いたいことは、山や海のない町はあっても、川のない町はないということです。話は長くなりましたが、この町の川が気になり見てみたくなりました。城址公園からは見えませんが、その西側を流れる川は旭川と言います。川幅は細く、浅いのですが、この秋田市の中心流れる川であるのに水は冷たく澄んでいて、繁華街近くの橋の袂にサギが一羽橋を渡る人も恐れずひたすら川面に目を凝らしていました。
秋田を代表する一級河川は雄物川(おものがわ)と言います。街からは遠く歩いていける距離ではありません。時間もありませんので仕方なくタクシーに乗り見に行きました。この川は秋田県湯沢市の山形県、宮城県との県境付近にある大仙山に源を発します。この秋田市街は河口も近いことで川幅は広く、ゆったりと流れています。
旭川と雄物川の中間に太平川が流れています。川幅は旭川と同じくらいです。太平川と聞くと、日本酒好きな方なら清酒太平山の名が出てくるでしょう。同じく地元の高清水と並んで有名な清酒です。
公演が終われば、もう一杯やる時間になります。
夕食は勿論「はたはた」でした。残念なことにタイガースのメンバー鉄人バンド、及びスタッフ総勢14人でなんと、大振りではありましたがたった4匹しかなく、味わうというよりも少なすぎて、不全感だけが残りました。それでも僕は八分の一ぐらいはしっかり頂きました。きっとありつけなかった人もいたのに。
とんぶり(箒の実、実生活では敬遠したいのですが、ステージでは僕のギター代わりの楽器としてお世話になっています)と山芋(山芋の切り方が非常に細く、味わいに繊細さを添えていました)抜群の相性を感じました。
ひろっこ(あさつき)の酢みそ和え。芽が出たばかりのもので柔らかく、少し行者にんにくのような味わいでした。
きりたんぽ(比内地鶏を使って)、出汁がこれまでに食べた鍋の中でも好く出ていて、屈指の味わいでした。秋田市内で食べた「ひない鳥」は最高でした。
セリの茎(この根の部分は生まれて初めて食べたのですが、実に細いのですが歯ごたえがよいものでした)と葉、ごぼう、糸こんにゃく、シメジなどなどの野菜類と絶妙の取り合わせでした。
〆は勿論稲庭うどん、乾麺ですが味は上品繊細で喉越し比類のないものでした。ちなみに、沢田、岸部、太郎は温かいのを、僕は冷たいのを頂きました。
「しょっつる鍋」はそのメインとなる「はたはた」がなくて食べられず残念な思いをしましたが、最高に美味しい「きりたんぽ」が食べられ大満足の秋田の夜でした。食べて身体が温まりましたから、寝るときは「湯たんぽ」は当然要りませんでした。
次の日起きて、窓のカーテンを開けると外は一面銀世界、雪国秋田の面目躍如、空に雪が舞い、道に厚く雪が積もっていました。僕は洗面もそこそこに、午前九時の出発前、カメラを引っさげてまた城址公園へと向かいました。

山形県鶴岡(12月16日)(鶴岡市、温海温泉)

今日我々は、秋田を出て鶴岡に向かいました。鶴岡で高速道路を降りたのは、沢田推薦のイタリアレストランで昼食をとるためと、日本海側に沿って南下し今晩の宿泊地、温海(あつみ)温泉に泊まるためでした。
秋田からの道中も昨夜から降り始めた雪は降り止まず、何時までも何処までも銀世界は続きました。それは我々一行の道路を清めてくれるかのように、また赤ではなく、また女性ではありませんが、文字通りバージンロードのように僕には思えました。
このレストランは鶴岡市の郊外の辺鄙なところにありますが、地元の素材を生かしたその料理の味は日本全国に知られていて、予約を取るのが極めて難しいといわれている名店だそうです。
その前評判に相応しい料理が、オードブルから始まって魚(海老・ワラサ・鱈など)、肉(鹿肉・牛肉)、デザートまで次から次へと計12皿出て来ました。料理の値段は一人7,500円です。
僕が最も美味いと思ったのは、「ガサ海老」といわれ当地特産の海老を使ったリゾットでした。
これは新鮮な磯の香りがし、パリッとして頭ごと皮まで食べられ、海老の淡白でいて自然の滋味がたっぷり、えも言えない深い味わいでした。
最初に12皿と聞いたときはきっと食べ残すに違いないと思いましたが、会食者全員が完食しました。庄内の海と山の幸、店の方の熱意と努力に感謝します。また、よくぞ容易に取れない予約を最後まであきらめずにこまめに店と連絡を取ってくれ、こんな辺鄙なところに連れてきてくれた沢田に感謝します。有難う。
道は海岸線に沿って進みました。しばらく走ると進行右に日本海が見えてきました。冬の日本海、波は高く男性的な景観の海岸線が続きます。今日は移動日で公演は休みですが、まるで仕事のために来ていることを忘れるような「素晴らしい旅行」(あれっ僕たちザ・タイガースの曲名)です。日本海が初めて現れたときはバスの中がどよめきました。降り散る雪に日本海の荒波が海岸の岩石に砕け散り、時折りカモメが高く低く舞っていました。
我々は日の落ちる遥か前に温海温泉へ到着しました。今晩は日本式の旅館に泊まることになっていました。和風旅館に泊まるのは今回のツアーでは初めてでした。宿に着くなり、タローは旅館から遥か離れたコンビニへ競馬新聞を買いに走りました。僕は先ず旅館のロビーへパソコンを持ち出しネットに接続してメールを見ました。岸部は同行している友人のTN氏と大浴場へ行きました。
夕食は大広間で取りましたが、一行の殆どは旅館の浴衣を着てくつろぎ、食事中もにぎやかな駄洒落大会になったのは言うまでもありません。朝食も同じ広間で食べたのですが、今回のツアーで初めて一緒に一行で朝食を共にしました。
岸部が来年の僕の講演会の始まる日を聞いたので、来年2月17日だと答えると、彼は「そうか『217』、『ニイナ』と言うこと。それじゃ今日タローが馬券買うなら『217』で頼むよ」と。
前に別府を出る日カモメにウンチをかけられたことから、僕がウンがついたと熊本への道中で年末ジャンボ宝くじ買ったように、今回は馬券を買うに至りました。年末ジャンボはまだ発表されていないのですが、今回のレースの結果は新潟で分かり、残念ながら結局ウンはついていなかったのです。
新潟へ出かける前にこの朝も大浴場の露天風呂へ行くと、しばらくして岸部とTN氏が入って来ました。そこで僕が雪を固めてボールにして岸部めがけて投げつけました。すると岸部は報復とばかり浴槽からお湯を汲んできて僕をめがけてかけてきたのでした。その後直ちに雪合戦は始まりました。勿論素っ裸です。勝ち負けはありませんが、最後は僕が雪の中にダイビングして終わりにしました。ほてった身体には気持ちよく、本当に愉快です。少年時代に戻ったようでした。

新潟市(12月17日)

信濃川に架かる昭和橋を渡る手前から、左前方に円形でガラス張りの近代的な大きな建物が見えてきました。後で知ったのですが、市民芸術文化会館だそうです。今日の会場はそのとなりの県民会館です。今日は公演後新幹線ですぐに東京に帰ることになっているので、僕は新潟の街を探訪できるか少し不安でした。しかし、会場に入ったのが音合わせの約2時間弱前でしたので、着くや否やショルダーバックを肩にかけて、楽屋口から飛び出しました。
鉄人バンドのキーボード奏者の泰輝さんも、僕同様散策に出かけるようでした。彼とは今回のツアーでも会場の外でばったりよく出くわしました。彼も外に出て街を見て回るのがどうやら好きなようです。僕は先ほど渡った昭和橋をまた渡って対岸へ向かいました。気温は今の時期東京などに比べると低いですが、空はとてもよく晴れて、風もなくすがすがしい気分がしました。道路は一昨夜降り積もった雪が溶け出して、歩きにくく滑って転ばないように小幅で歩くよう注意する必要がありました。この昭和橋は河口に近いだけあってとても長く、その長さは三四百メートルはあるようです。
今日は新潟に滞在している時間が少ないので、予め見たい場所を絞っていました。先ず、萬代橋(ばんだいばし)、そして僕の好きな新潟出身の作家坂口安吾にゆかりのある場所に行きたいということでした。彼は織田作之助、檀一雄、太宰治等と並んで戦後無頼派の代表的な作家として知られています。
萬代橋は石でできた橋で1964年(昭和39年)の新潟地震でも、その後にできたその他の橋もすべて崩壊したにも関わらず無事であったといわれています。ともかくも、遥か以前にも幾度か来たことはありましたが、僕の印象では新潟市の顔のような存在で、この地に来れば一度は見ないといけないような気にさせる橋です。1967年美川憲一が歌った「新潟ブルース」にも出てきてその橋の傍らに歌碑があるように。
久しぶりに今回訪れたのですが、恐らく30年は過ぎていると思いますが、やはり依然として存在感のある立派な橋でした。今回その橋を眺めて、以前は感じなかった印象を強く持ちました。それは、もう記憶の中では遠い存在ですが、1980年モスクワオリンピックのとき訪れた、ソ連(現ロシア)レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)の中心を流れるネヴァ川に架かる橋を彷彿とさせました。
そういえば、思い出すのですが、中国に留学中1982年日本へ一時帰国してまた中国へ帰ったとき、新潟からソ連のハバロフスクまで飛行機に乗って、それから汽車でウランバートルを通って北京へ戻ったことがありますが、新潟からソ連のハバロフスクまでは本当に距離的には近いのだと思いました。今回僕にはなぜか新潟はロシアの臭いのする街のような印象を強く受けました。
さて、時間がありません。勿論タクシーでの移動になりました。運転手さんに坂口安吾のゆかりの地を聞くと無線で問い合わせてくれ、彼を記念した建物、旧市長公舎があるとのこと、またそこは萬代橋からも遠くないとのこと。勿論タクシーを飛ばしました。
それは安吾の作品にちなんで「風の館」と言います。その館を訪ね拝観し、係りの方に尋ねました。安吾の生家は何処ですかと。すると意外なことにすぐそばだということでした。それは大神宮というところの付近で、その大神宮には安吾の詩碑があるとのことです。
また、運転手さんにその旨告げその地に向かいました。ありました。そこの碑には
「私のふるさとの家は空と海と砂と松林であった。そして吹く風であり風の音であった」
とあります。
そして、運転手さんは会津八一〔(歌人・書家・美術史家、新潟生まれ(1881~1956)〕記念館も近いので行きますかと聞かれ、勿論行きますと答え、僕は向かいました。なんと安吾の家と八一の記念館がそんなに近いことに驚くと共に喜びました。ただ、残念なことには行って見ましたが、丁度休館日で中に入ることができませんでした。だから外からその建物を写真に撮っただけでした。
そのとき、その側にさっきから通ってきた長い長い松林が気になっていたわけですが、八一の記念館からその松林の中間に向こうへ抜ける小道があり、その先が素晴らしい松林のトンネルになっていたので、僕はそこへは少し入っていきそのトンネルのその先を望見したのでしたが、その先は空が開けて大地のように、平野のようにな、海のように見え、なんだか遠くてわかりませんでした。そこでタクシーに戻ってその先は何ですかと尋ねると、運転手さんは日本海だといい、その先右側の海辺で横田めぐみさんが北朝鮮の人間に拉致されたのだということでした。
僕は安吾や八一の住んでいた風景に文学史的に思いを馳せていたので、その地が現代史と生々しくつながっていることに大変驚きました。この地は、北朝鮮にもロシアにも本当に近いのだと身をもって知りました。
今回の秋田・山形・新潟ツアーも大変素晴らしい思い出になりました。また、今回も長々とお付き合い下さり皆様有難うございました。

[photo]  秋田・(山形・)新潟(12/15、17) >>

 

会場変更のお知らせ「川中島の戦い」続報に関して:

すでに皆様方に予告しておりましたが、以下のようになりましたので改めてお知らせいたします。
この度の試合開催者と致しまして、
2011年10月29日、まず甲斐の武田信玄からの決闘申し込みで彼のもとへ赴き、そして同年12月11日、戦いの場となる信州の川中島を下見し、同年12月17日、最後に越後の上杉謙信のもとを訪ね、両者そろって参戦することを確認しましたが、会場は当初予定していた川中島から江戸城竹橋の武道館に変更されることになりました。日時は2012年1月24日18時30分開始となります。
どうぞ皆様方におかれましてはこぞってお運びくださいませ。

主人軽薄

出演お知らせ

報告
2011年12月18日
「中村こずえのみんなでニッポン日曜日!」静岡放送他出演
2011年12月20日
早稲田大学 理工学部にて講義 テーマ「知財と虎の一管見」

予告
2012年2月 
タケカワ ユキヒデの「知らないだろう」 USEN 2月10日、17日、24日、3月2日
(4週間:1回4時間、6回繰り返し24時間放送)
2012年2月13日~15日17:00~17:49 
NHK 新BS1 「ほっと@アジア」

2011年12月22日 記

ツアー報告-前橋、長野(12/10、11)
前橋市

東京から新幹線で約一時間、高崎で降りツアーのバスに乗り換え、まにまに冠雪の見える榛名の山々を進行左に見て、利根川を渡るともうそこは前橋、今夜はこの地でコンサートが開かれることになっていて、前橋での終演後すぐ同じバスに乗って、明日の公演地長野市に移動するということになっています。
ならば、相当古いのですが国定忠治の時世の句のように、また三木のり平の海苔の佃煮のコマーシャルように「赤城の山も今宵限り・・・」ということになる(?)ので、当地のホールに着くやいなや、赤城山を写真に収め皆様にご覧いただきたいと、カメラを引っつかんで外に出て見ました。
ところが周りに建物があり、なかなか山の全体が見られない、近くのマンションに断りもなく、最上階になっていた5階に上がって見ても、やはりその前の県庁の高くて大きな建物が障害物となって遠望して全景を捉えることができません。
それならばその県の施設に上がればよいに違いないと算段して、結局県の施設に隣接する演奏会場の関係者のところへ行き案内して頂き、ホールの上層階に上がることができました。そこでやっと山のおおらかな全容を写真に収めることができました。赤城山は山の裾野が長く大変優美かつ雄大であります。
公演後、夜の移動のバスの車窓から、やたらに目に付くラブホテルのネオンきらめく道路を走り、中空にはやや朧がかったきれいな満月を見ながら長野へ向かいました。着いたのは夜九時半をまわっており、今日は皆既月食ということでホテルに入りすぐに窓を開けて眺めましたが、方向が東側の山に向いていたので全く見られませんでした。翌朝、太郎はテレビで見たと、沢田は夜の1時半ごろまでそのショーを楽しんだとのことでした。残念ながら僕は見られず、部屋で一人冷たくなった弁当を肴に缶ビールを飲みパソコンをやって、明日早朝からの活動のために早めに眠りました。「大利根月夜」、この歌は先のフレーズ同様相当古いのですが、も断念しました。
話は戻りますが、このような悠々迫らない優美、雄大な赤城山をいつも見て、この地の人は生活しているのかと思うと都会でせせこましく生きている人間にとってはうらやましく感じられます。
慶應高校国語科教員時代、僕と仲のよかった慶大卒の同僚はこの地生まれの上州っ子です。彼は県立前橋高校出身でコピーライター、法政大学卒の糸井重里氏と同級生でとても仲がよかったそうです。この文を書いていて初めて知ったのですが、糸井氏は1979年沢田の「TOKIO」の作詞者だということです。同僚の彼は何事にも淡々としていて脱俗者のようで、そのような糸井氏と沢田との関係など一言もいわないので僕など全く知りませんでした。
彼は森鴎外の「舞姫」研究ついては特に詳しく、話させれば一晩でも二晩でも話し続けますし、一年間でもそれだけで授業をすることができます。僕は慶應女子高等高校でも二年間(1978~1980)漢文の事業を受け持ちましたが、彼も同期間現代文を教えていて、僕より以上に人気のあった男子教員でした。その頃丁度、リンボウ先生としてその後有名になった現作家の林望も当時慶應女子高の国語科にいた同僚でやはり人気の高い教師でした。
国語科のその同僚は、学生時代糸井などと共に全共闘の戦士で、また、劇画「美味しんぼう」の原作者雁屋哲(1941年北京市生まれ)の弟、「雁屋小哲」も慶応大学時代その仲間で同級生でした。
なんでも同僚の話では、雁屋小哲は慶大英文科を中退した後、ロンドンへ行きジャズピアノ奏者として現地のライブバンドで演奏していたのですが、兄の雁屋哲の「美味しんぼう」が売れて忙しくなったので、今は兄の仕事をもっぱら手伝っているのだそうです。また、小哲は料理を作るのが上手くて、この同僚が彼の家へ訪ねていくと美味い料理を簡単に作ってご馳走してくれるというので、もしこの次彼が小哲から呼ばれたら、ついでに僕も招待していただきたいと頼みこんであるのですが、いまだにその返事がないまま空しく時が過ぎているのが現状です。
また、雁屋哲については僕の教え子で、自腹で世界のミシェラン三ツ星レストランをすべて「食破」した藤山純二郎(『ロング・グッバイのあとで』p151参照)が食事を共にしたことがあり、この先また共にするというので、もしよければ僕も同席させて頂きたいと頼んでいます。まだ色好い返事がないまま現在に至っています。
結局は食べ物の話になりましたが、今回のツアーでは時間がなく、水沢のうどんも食べられず心を残しています。この次はきっと伊香保温泉か水上温泉かに泊まったついでか、万座のスキー場に行った際にでも食べたいものです。

長野市

「牛に引かれて善光寺参り」という民話がありますが、今日は「蕎麦に惹かれて善光寺参り」してきました。昨夜は早く寝たので早朝から起きられ、体操と朝食を兼ね善光寺へ参詣しました。
ホテルは県庁通りにあり、道路を隔てたその向かいにとんがり帽子のような可愛い旭山という小山ありました。そこから先ず県庁通りを北上して善光寺の西側の門から本堂へ入り、本堂の中央南門から抜け、南下して長野駅方面に歩きました。途中、コンビニがあったので、牛乳・ホットドック(中国語は热狗rou gou 熱い犬の意)キャベツの漬物を買って、近くの駐車場の陽だまりで済ませました。満足。
街はにぎやかですが落ち着いた門前町の風情があり、街のいたるところに、蕎麦屋、りんご、おやきの看板が見られます。

「信州信濃の蕎麦よりもわたしゃ貴方の側がよい」というどどいつがありますが、「わたしゃ貴方の側よりも信州信濃の蕎麦がよい」とばかりに今や食い気に走って色気なく、長い散歩に疲れて、急にお腹がすいてきました。朝出かけにホテルで数件選りすぐりの蕎麦屋を紹介してもらいましたが、その中でどの店がよいか分からなかったのですが、その紹介パンフの一項に目を着けました。その店キャッチは「売り切れ次第閉店」とありました。そこで「天もりそば」1,100円を食べました。てんぷらの海老は鮮度がよく揚げ立てでサクサクして、蕎麦はクイチというから、そば粉十割でなく九割なのでしょう若干ボソボソしていますが美味で、汁は甘からず辛からず程のよいものでした。〆は蕎麦がきぜんざいを頂いて満喫しました。ご馳走様。
また、当地で有名な「おやき」が楽屋に用意されていたのですが、一見饅頭のようで、これまで食べたことがなかったのでした。昼すでに蕎麦を食べていてお腹は一杯でしたが、食べて見ると美味で、僕の食べたのは各種野菜の入ったもので、大変ヘルシーな感じがしました。おやつ代りに小腹を膨らませるのに手ごろなたべものという風に思いました。ご馳走様でした。他に野沢菜だけをいれたものなど種類は多いとのことです。

さて話は続きますが、昨日、前橋もよい天気でしたが今日長野も快晴で空気は凛として澄みすがすがしい初冬の1日でした。ともかく、この町の川が見たくてホテルでくれた簡単な地図を頼りに南門から続く中央通をさらに南下し長野駅に出て、駅前のドトールコーヒーでテイクアウトのコーヒーを買って、ついでに道を尋ねると年のころ4~50代の男性は地図上にある長野市の南を流れる犀川を知らなかったのですが、大きな川なら駅の南の向こうに流れているということでした。
そこから信越本線の跨線橋を越えてひたすら国道らしい大通りを20分ほど歩いたのですが、そのような川は見えてきませんでした。
さすがに散歩の好きな僕ももうホテルを出て2時間半殆ど歩きとおしで、くたびれ果てて来ました。道路にはかなりの数の車は行き交いますが、タクシーは一台も走っていません。若干不安を感じて、歩き続けました。先ほどから路線バスが時折通過していたので、ともかく最寄のバス停まで歩くことにしました。程なくバスがやってきたので手を挙げて乗り込みました。
バスの運転手さんに犀川の橋がかかっているところまでと告げて料金を聞きました。バスは次の駅を通過して、すぐに車内アナウンスがあり「このバスは川中島古戦場経由・・・行き」というのです。それで疲れ果ててシルバーシートに腰掛けてぼんやり聞いていたのです。程なく次のバス停に着いたので下車しました。バスが走り出してから、エッ、ナニ、「川中島古戦場」
と聞いて、やっと甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が戦った信濃の川中島の合戦を思い出し、しまったと後悔しました。
今日は午後1時集合でそれまでにホテルの荷物をまとめてロビーに集合しなければならないのです。また、それまでに信州の鬼無里の蕎麦を食べなければ話にならないのです。残された時間はすでに、一時間半、ああーなんと無念なことか、なんと川中島の近くに来ているのに見ないで帰らなければならないのかと自分の出たとこ勝負の、行き当たりばったりの旅を悔いました。
でも、まだ犀川だって見ていないのだから、川中島を見る時間はもうないだろうと思い、犀川の川辺に立ち写真を撮って、なんでも川の草を集めて祭りで焼くためにそれを刈り取っている人たちがいたので、「この近くにタクシーなど来てくれませんよね」と。まったく期待しないで尋ねると、意外や意外その道路から200m程の交差点近くにタクシー会社の営業所があるという。僕は絶望の淵から天国に入り口に達したかのように思えました。もちろんダッシュしてそこへ行き、川中島の合戦にはせ参じました。また意外なことにそこから千曲川へも5分くらいで行けるとのこと、狂喜乱舞したことはいうまでもありません。
これで、この次に訪ねる越後の国新潟でこの川中島の話は終結することができるのです。喜びはここに極まりました。長々とご拝読有難うございました。

[photo]  前橋、長野(12/10、11) >>

2011年12月13日 記

北京報告など(2011年12月5日~8日)

12月5日東京羽田―北京、12月8日北京発―東京羽田

この間の食事
6日 鼎泰豊 上海蟹(一般に大閘蟹と呼ばれている:江蘇省陽澄湖産、雌雄一つがい250元。一元は約12日本円)
7日 大董 北京ダック(参考:江蘇省太湖産の蟹 一杯250元、この地の蟹でこの値段食べるのが馬鹿馬鹿しく思えて断念。写真だけは撮りました)
8日 中国駐日本大使館山田公使主催昼食会

12月4日に四国での最後の公演を終え、12月5日高知午前10:10発、羽田午前11時30分着、国際線13:50発北京行きに乗り換えて北京へ。実際には北京空港は濃霧のため遅延して、19時過ぎにようやく羽田を飛びたつことができ現地時間23時を大きく過ぎた頃に到着しました。
さすがに、前日の高知での公演後の翌朝9時起きでこの時間ですから大変疲労しました。でも翌12月6日北京空港は濃霧のため終日運休したとのことで、昨夜中に北京へ着けただけでも幸運でした。
今回の短時間での滞在は、12月8日午前11:30から駐北京日本大使館で北京第四中学校への翻訳本の贈呈式を行なうためでした。この翻訳は慶應義塾高等高校の中国語を担当する教師を中心として、主に慶應義塾の中学生、高校生、大学生、卒業生によってその作業はなされました。
ことの始まりは2008年に北京第四中学校の高中二年級(高校二年生に相当)の生徒全員が日本へ修学旅行に来たことによります。このような一学年全体400余名が全員外国、日本へ修学旅行に来たのは有史以来のことだそうです。
第四中学は中国でも一二を争う名門校で、その生徒たちは各方面で指導者となって中国の将来を担う卵たちばかりなのです。このような優秀な生徒諸君と我が校の生徒諸君がこのような多感な時期に交流できれば、どんなに素晴らしいかと強く思いました。また、このような高校生の時期にお互い知り合えればきっと一生涯の友達になれると考えたことがこの交流を実現させたいと願う大きな原動力になりました。
正式には1995年からこの学校が我々慶應高校に交換留学や姉妹校の提案がなされていて、その交渉役として当時の慶応高校の校長から僕はその使命を受けていました。しかし残念ながらその友好協定は結ばれないまま今日に至っています。
そのような過程の中で先ほど述べましたが、2008年にその半分の生徒、200名が修学旅行の一環として我が校を訪問したのでした。光栄にも彼らが我が校を選んだのは1995年以来の関係が依然として細々ながらも続いていたからでした。
そのとき北京第四中から直接僕のところへ先ず打診がありました。僕はことの前後も考えずに二つ返事で承諾しました。結果的にはその後当時の慶應高校校長や教員に多大な負担をかけてしまいましたが、生徒、大学生、各方面の卒業生OBの力を借りて成功裏にその訪問はなされました。本当に皆さんのご協力を今も感謝しています。
その2008年の6月北京四中の生徒の訪日後、もうその年の10月には北京四中の生徒たちが書いた日本訪問記が中央民族大学出版社から上梓されました。その直前に当たる夏に、四中の劉長銘校長がこの時期に修学旅行を敢行したことを彼のブログで発表して、おびただしい数の人々が絶賛のエールを送りました。
というのも、この2008年5月四川の大地震が起こっていたからです。中国政府は全力を挙げてその対応に取り組んでいたときの直後の6月にこの旅行は実施されたからです。これは一つ間違えば非難の嵐となって校長は恐らく永久にその職から追放されたでしょうから。
このとき校長は、「確かに地震の災禍は大きいが、今後の中国を背負って立つ生徒も国家に取って非常に有為な存在である。」と論陣を張ったのでした。そのとき僕は個人的にはこの判断は劉校長の大英断だと評価しました。校長の素晴らしい心意気にも大いに感じました。北京四中は中国でも唯一全中国から生徒を募集できる学校で、生徒の中には四川から来ているものも少なくないということを考えればなおさらです。
そのような経緯がありましたが、本が上梓され、張雲裳四中書記は僕にその本を送ってくれました。その後2009年、北京で「京劇と日舞のコラボレーション」公演の会場探しの件で、四中を訪れた際、正式に張書記からできれば日本語に翻訳して出版してもらいたとの要請を受けたのでした。
翻訳完成までに結局3年余りの長い時間がたちましたが、ようやくその約束を果たすことができ、この上ない喜びを感じています。これもすべて関係各位、多くの皆様の協力のお陰と深く感謝しております。重ねて御礼申し上げます。
  「中国のエリート高校生日本滞在記」日本語版>>
  人民日報日本語サイト「中国網日本語版(チャイナネット)」
           「北京四中に 『高校生日本滞在記』 贈呈」 >>

   「人民日報」記事翻訳 (ファンサイト、「鯵」様訳 )>>

以上がツアー中、今回短い間北京へ行った理由です。皆様にはご心配をおかけしましたが、無事また戻ってこられ、日程的には多少危ない綱渡りでしたが、ツアーを続行しますので変わらぬ応援宜しくお願します。

[photo]  北京報告など(2011年12月5日~8日) >>

2011年12月9日 記

ツアー報告-(12月1日松山市)訂正、(12月2日高松市)後日談

(12月1日松山市)訂正

<12月1日松山市>
12月8日 ファンの方から早速次のようなメールを頂きました。
・・・、松山の街路樹は「南天」ではなく「くろがねもち」という「もちのき」です。そこが「ナンテン」でしたね(笑)。
とのお教えを頂きました。ここに謹んで上記のように「南天」を「クロガネモチ」に訂正します。お教え有難うございました。以上一点

(12月2日高松市)後日談

<12月2日高松市>
12月2日松山から高松に行く際に起こった前回のツアー報告、続報。
以下のようなメールを頂きましたので、紹介します。

瞳みのる様
宇多津駅で高松へ行かれるのでは?と声をかけたとあるファンの娘です。
感謝の気持ちを伝えたくてメールします。
先日UPされた四国ツアーの報告、母は「役にたてたんだ」と、とても喜んでいました。
今回の四国ツアーでの偶然は母にとって素晴らしい思い出になりました!
あの日の昼休み、母から同じ電車に乗ってる!!!とメールが来ました。
チケットにサインしてもらったら?と返事した後、
サイン、写真、乗り換えと、母から本当に嬉しそうな状況報告メールをもらいました。
こんな偶然があるなんてと何度も言っていました。
コンサートもオペラハウスみたいで音がよかったと喜んでいました。
母は来年の日本武道館も行きます。
(先行抽選に4回ほど申し込み、何とか当選しました)
1/24は特別な日だから、と今からとても楽しみにしています。
私は関東、母は関西に住んでいますので、いつもは電話やメールでやりとりしています。
武道館当日は声だけでなく母の幸せな笑顔に会えると私も楽しみにしています。
厳しい寒さが続きます。どうぞご自愛くださいますように。
12月8日 とあるファンの娘より

[photo]  愛媛、香川、高知(12/1、2、4) >>

2011年12月9日 記

ツアー報告-愛媛、香川、高知(12/1、2、4)
12月1日松山市

肌寒い風雨の中、正午羽田を飛び立ち午後1時半ごろ松山空港へ到着。愛媛県伊予松山は小雨。気温は東京同様、南国四国へ来ているのにといった思いだけに吹く風も一層寒く感じられました。
空港から市街地に続く道路はなんと延々と街路樹として、紅い実をつけた高さ3メートル以上もあるような南天(※訂正>)が植わっていました。街路樹としても珍しく、また低木だとばかり思っていた南天がまるで喬木のように感じられました。気候的には南方で育つのに取り立てて難点はないようです。
僕がその街路樹をバスの車窓から飽きもせず興味深く眺めているのを、沢田は見て早速、「ここで木々を評価して点数を付けるならば、この木は何点ぐらいだろうか」と洒落めかしました。
我々の乗ったバスが市の中心部へ入り、床屋の前を通りかかったとき比較的大きな看板を上げている店がありました。すると、やはら岸部、「この街の坊やはみな坊ちゃん刈りかなぁ」といつものようにぼそりと言いました。地が地であるだけに、一同大笑いをしました。夏目漱石も真っ青です。
床屋の話が出たので、僕は小さい頃を思い出し、みなに尋ねました。「散髪学校へ行ったことはある」と。誰も言ったことがないとのことでした。僕は小学校の頃、兄と二人で家の近くにある理容学校へよく散髪に行ったものでした。と言うのも理容学校は理髪を学ぶ人のためにある学校で、実験台になれば散髪代がいらないのです。だから僕ら兄弟は親から床屋代をもらい、そこ行ってタダで刈ってもらい、その金を自分達の小遣いにしていたのでした。
ところがあるとき、兄はその実習生に誤ってハサミで耳を切られ大量出血して大変な目に遭いました。それ以来僕ら兄弟はもう二度と散髪学校へ行かなくなりました。何でも、人間の身体の部分で耳たぶは最も簡単に血の出るところだそうです。だけど、無料にしてもそんな出血大サービスなどいりませんよね。もっとも僕達メンバーが行ったらトラ刈りされるかもしれません。
松山城は街の中心にあり、ホテルの部屋から天守閣の一部が見えました。音合わせまで1時間余あるとのことで、急いでいつも携帯しているバックをひっつかみ、ホテルが出している簡単な観光地図を片手に路面電車の走っている表道路へと飛び出して行きました。
城は周囲平地の中ひときわ高い山の頂上にあります。頂上へはケーブルカーとリフトがあり、結局一人で空中散歩のような気分が味わえるリフトで、またそれは随時運行して、空いていて待たずに乗れるので、それを利用しました。
天守閣まで登ってみたかったのですが、時間がなくその下で我慢しました。見上げるとその概観はとても優美な姿をしています。頂上からの景色は雄大で瀬戸内海が遥かに望見できます。
会場はその松山城のある城山公園の中の市民会館でした。それにつけても、今回のツアーはこれまで、東京、富山、大阪、静岡、岐阜、岡山、熊本など多くの城の側で公演したものだという思いに駆られました。シロシロシロみなモノクロでないカラーのしろです。これからも続きます。
公演後、沢田が当日散歩がてらに下見した居酒屋へ繰り出しました。料理は全7品、一人2,700円でした。彼のよい店を探し出す嗅覚は素晴らしく、また美味い店をよく知っていて舌を巻きますが、今回は珍しくはずれでした。

12月2日高松市

この日は他のメンバーより先に高松に入りました。と言うのも午後から高松でラジオ、新聞、タウン誌の仕事が入っていたからです。朝、JR松山駅から高松行きの特急に乗りました。2時間半ほどで着くと言うことで、車中ではもっぱら車窓の風景を見たり、写真を撮ったり、今回のツアー紀行の原案をあれこれ考えたりしていました。
車内放送で何両か車両が切り離され、一方が岡山行き、もう一方が徳島行きとのアナウンスを流していましたが、僕は全く意に介さず、どの道列車は高松に行くので、高松で降りればよいと思い込んで列車に乗り込んでいたのでした。
先頭の客車に乗客は2~3人しか乗っていませんでした。列車が一時間ばかり走った頃一人の中年女性から「今日は」と挨拶され、突然のことでびっくりしましたが、やっとその乗客の一人がザタイガースのファンであることがわかりました。そして、しばらくして別のやはり中年女性がある駅で停車した際、下車する直前に挨拶され、今晩コンサートを楽しみにしておりますと話しかけられ、僕のことなどこの車両の乗客など誰も知らないと思っていたのでまたもや大変驚きました。
二時間ぐらいしたとき列車はとある駅で2,3分停車しました。この線は単線で特急といえども絶えず停車するものと考えて、ゆうゆうと座席に腰掛けていました。
すると、最初挨拶された女性もこのとき下車され、1、2分したときあわてて引き返して来られ僕に、「高松で降りられるのではないですか」と尋ねられ、「そうです」と答えると、「それではここで降りて乗り換えねばなりません」と。最初は冗談で多少からかって言われたのかと思いましたが、そのような態度ではなくて真面目そうな方なので急いで下車して、最後尾の車両に乗り換えたのでした。
危機一髪、彼女が知らせてくれなければ、このまま瀬戸内を跨ぎ岡山へ行って、生番組に、さらには今日の公演に穴を空けていたかもしれないと思いぞっとしました。いやたまたま乗り合わせていた方が、ザ・タイガースのファンでよかったとつくづく思いました。感謝感謝!(※後日談>
高松公演の後、沢田と太郎は当夜高知へ移動しましたが、僕と岸部は高松で宿泊しました。僕の30年来の友人がその仲間と歓迎の宴を張ってくれたからです。この仲間に京都から来た老虎支援委員会長で中学時代のクラスメートの坂田寿男夫妻、岸部が合流して楽しい食事会となりました。
メニューは以下の通りです。岡山以来の瀬戸内料理第二弾です。この店はこれまで食べてきた中でも極めつけに美味なものでした。
○先付
ほうれん草おひたし・紫芋流し蒸し・蕗ビンロー煮・イカ団子べっこうあんかけ・つらられんこん
○貝柱炙りサラダ仕立て(平貝身は地元産)
○丸ハギと玉子豆腐お吸い物(だしは丸ハギから取ったもののみ、これが魚のうまみ100%の味)
○丸ハギ肝和え物(丸ハギは刺身の糸切り状態、ハギの肝が絶妙に絡む美味さ)
○刺身
鰆・天然鯛・剣先イカ・ウ二(鰆は岡山同様に厚切りで淡白な味わいの中に油を感じさせる。鯛は薄切り程よい歯ごたえ上品。剣先イカは厚みがあり甲いかのような歯ざわり絶品)
○あら海老の二重蒸し(これもだしは海老のみ、これもまた味わったことのない逸品)
○のどぐろの味噌煮(白味噌を使っていたので、京都の白味噌のお雑煮を想像したが、甘みが強くなく、煮汁まで飲んで満喫)
○渡り蟹酢(味噌は少なかったが、身はしっとりとして端麗な味わい)
○鱈白子醤油焼き(分量全体の料理のバランスに程よく焼き方に過不足ない。ねっとりしていてもしつこさを感じさせない)
○鯛茶漬け
○りんごのシャーベット
以上、料理は一人6,000円
サインを店主夫妻より頼まれて、喜んで岸部と僕はしました。
翌日、僕は30年来の友人とその同級生の3人で時折降る小雨の中、栗林公園で朝粥を食べ、庭園内を散策し尽くして、最後に高松郊外のうどん屋で締めに讃岐うどん(かけうどん・しっぽくうどん)を2玉食し大満足して、彼らと別れ高知に向かいました。(うどん一玉220円)
高松は、海(高松港)と山(紫雲山)が調和する美しい素敵な町でした。

12月3日高知(土)移動日

高知というが、実際は高地にはなく、市街地は海抜4メートルの低地、しかも湿地帯にあり、先の3・11の大地震では漁村が大変な被害を被ったと現地の方から聞かされました。ここも速やかな復興を願うばかりです。
幕末から明治にかけて、土佐の高知は日本の政治の激動期の舞台として、山内容堂(藩主)や坂本竜馬、武市半平太、板垣退助などの人物が有名で、特に司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』で一般によく知られており、高知からの帰路航路として利用しましたが、その竜馬の名は空港にまで『高知竜馬空港』として使われています(12月5日空港に到着する直前沢田の指摘で気付いたのでした)。
その高知市内からその空港に向かう東およそ8キロ地点にある南国市に、平安前期の歌人として、『古今和歌集』の撰者としても有名な紀貫之は約5年ほど土佐国司として勤め、任を終え934年12月国府を出発し、翌年2月帰京するまでを、真名(漢文)でなく仮名で、女性に仮託して、『土佐日記』を書いております。
今もし紀貫之が生きていたら、南国市郊外の飛行場高知竜馬空港から役人として飛行機に乗って、わずか30分内外で伊丹か関西空港へときっと帰るでしょうから、日記文学確立の端緒となった『土佐日記』は成立していなかったでしょう。
そのように考えるなら、『奥の細道』の旅だって松尾芭蕉は隅田川から千住で船を降りて行かなかっただろし、北島三郎だって、「はるばる来たぜ、函館と・・・」青函連絡船に乗って行かなかったでしょう。いや本当に世の中は変わりますね。
ともかくも、平安・幕末・明治、古今いずれも京都に深く関係している点で僕には興味惹かれ、漢文をかつて教えていたものとしては特に平安の古に関心が傾きます。
さて、当日の夜は鉄人バンドの面々も一緒に食事会が行なわれ、「クエ(ハタ系の魚)鍋」を楽しみました。料理の差配は「鍋奉行?」の沢田です。彼は大阪での「ハリハリ鍋」も当然努めました。クエは白身の魚で、見た感じや口に入れた感じは、鱈に似ていますが、味は淡白な中にもしっとりとした深い味わいがあります。最後も沢田の指揮で先ずそのだしでうどん、次いでご飯を入れおじやにして、沢田の「クエ」の号令で頂きました。
なんとその後、また高知の繁華街、江ノ口川っ縁の屋台に餃子を食べに出ました。中にはラーメンまで食べたつわものもいますが、本当にこの集団は食いしん坊ばかりです。
帰りは腹ごなしのためにも歩いて追手筋を通り、随所随所に、はめ込んである道路のタイル(かつお、くじら等)を見ながら、また途中12月から高知城で始まったという幻想的な夜の行灯祭りを見ながら帰途に付きました。

12月4日(日)

今日は日曜で、朝市があると沢田が言っていたので、早朝7時30分に起床し朝の運動を兼ねて高知城を見学し、市で買った〆あじの棒寿司を朝食にしました。ついでに、天然うなぎの蒲焼も岸部が食べたいと言っていたので買いました。中ぐらいので一匹1,500円でした。
夕飯は沢田が岸部や僕が四万十川の天然うなぎを食べたいと言っていたのを受けて、リサーチしてくれ、もうそろそろ時期外れになるという、貴重な逸品(大振り三匹を4人でシェア)にありつき、高知産のくじらで鯨飲し大満足してお開きとなりました。
  四万十川の天然うなぎ、鯨(赤身、さえずり、立田揚)、のれそれ、みな大変「口服不浅」(kou fu bu qian)でした。

12月5日(月)

早朝、高知城と鏡川を再訪し、ハリマヤ橋に再再訪を誓い、これにて「ごめん」といって、後免に別れを告げました。

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2011年12月6日 記 北京にて

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