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メッセージ from ひとみみのる


「又一年 濃い濃い恋よ 恋よ来い」(2017年9月22日作)

彼岸花が咲いて僕の誕生日が来て、京都でそのイベントを終えて東京へ戻ってきたら、もう風の中に金木犀の香りが漂っていました。今更ながら時の移り変わりの鮮やかさに驚くばかりです。
今回の「山城ウエスト・サイド物語」バースデーイベント、今年もファンの方々を始め多くの皆さんに来ていただき成功裏に終えることができたこと、心より有難く感謝申し上げます。
一昨日より瞳みのる&22世紀バンドは11月からのツアーに向けて練習を始めました。昨年10月中国北京公演に次ぎ今年12月台湾台北公演があり、メンバーも更に張り切っております。どうぞ昨年同様、いゃ、それ以上よろしくお願い致します。





追記:僕の高校教師時代の教え子が本を出しました。書名は少し長いのですが、『世界のミシュラン三星レストランをほぼ食べ尽くした男の過剰なグルメ紀行』(藤山純二郎著 KKベストセラーズ2017年10月5日刊)といいます。本書中、僕に関することも記載されております。よろしければご一読ください。


[photo] バースデーイベント京都 >>

ひとみみのる 記
2017年9月27日

「秋老虎」

残暑お見舞い申し上げます。
まもなく、8月も終わろうとしています。
皆様お変わりございませんか。
その夏も終わろうとしているのに、この夏を振り返ってもナツかしさがなく、すでに気分はアキアキしています。

まだまだ、これからも中国語で言うところの「秋老虎」、山椒でなく残暑。
体感気候としては向暑、猛暑、厳暑、酷暑、極暑、炎暑、旱暑、耐暑、熱暑・・・
この暑さへの対処は大所、高所から見て避暑に勝るものはないですね。
つまり、当初から寒暑を避け別墅で内緒でのんびり過ごすのが一番。
皆様もご一緒に!

そんな折、僕は、台湾台北に向かう飛行機の中にいます。乗った飛行機はキティちゃんが機の胴体に描かれているエバー航空で、前々回も今回の台湾ライブの下見で乗ったのと同様です。今回の訪台は約一週間足らずの日程です。
今機内放送がありました。現地台北は36度とのことです。天気予報では今日の東京は最高気温が27度とのことでしたが。
今回はライブハウス側との細かな取り決め、プロモーション活動の一環として台北でのラジオ出演、現地の日系紙・タウン誌等の取材、我が母校慶応台湾三田会への挨拶及び日台交流協会への後援要請、日系企業・台湾企業への協賛依頼などが主たる活動です。
昨年の北京は僕にとってはそれなりの人脈があったので、何とか曲がりなりにもライブは成功しましたが、今年の台湾ライブはほとんど知り合いもなく、ごく限られた友人の助けで奮闘しているというのが実情です。
台湾は最も親日の国、是非とも今後とも台湾・日本の交流が促進できればと願っています。皆様の絶大なるご支援よろしくお願い申し上げます。

機中にて
ひとみみのる拝
2017年8月27日

「雨中の宇宙」

「紺屋の白袴」とは、染物屋である紺屋が着ている袴は染色されていない白袴、忙しくて自分の着ている袴まで染める暇がないことのたとえとして言いますが、僕の家は洋傘の製造卸で、傘は何時もぼろ傘、常にさすのに骨が折れました。「傘屋の骨折れ損」?
昔、大ヒットした歌に「雨に歩けば」があります。僕が中学生の頃、初めて真剣に覚えようとして歌ったものです。
原題「Just Walking In The Rain」、作詞・作曲:Johnny Bragg・Roberts Riley。
米国テネシー州立刑務所で服役中の黒人コーラス・ グループ、ザ・プリゾアネーズ(The Prisonaires)が、1953年に発表したR&Bの曲で、56年にジョニー・レイ(John Alvin Ray:1927–1990)がカバーし、ヒットチャートの全米 第2位・全英第1位を獲得しました。
歌の内容は失恋の痛みを忘れるために雨の中を歩いているが、どうしても忘れられないというものです。当時僕は失恋ソングだとも知らず、ロマンチックに歌っていたものです。

Just walking in the rain
Getting soaking wet
Torturing my heart
By trying to forget
Just walking in the rain
So alone and blue
All because my heart
Still remembers you
・・・

「あめあめふれふれ かあさんが じゃのめでおむかえうれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」と童謡にはあります。(作詞:北原白秋、作曲:中山晋平1925年)
じゃのめは「蛇の目傘」のことで、現代の日常生活ではほとんど見られなくなり、和服を着た花柳界の女性や中年女性が雨中にさしているのをたまに見かけることがある程度ですね。
蛇の目傘は今や高価な傘になりました。開いて中を見ると傘の根付が丸く、細かい糸で編まれていて、本当に蛇の目のように思えてくるから不思議です。実に芸術品のように美しいですね。
このような傘は江戸時代に作られたもので、日本にしかない実用的美術品ですね。
実用傘の中には竹の骨組みに油紙を貼った番傘というのもあります。ちなみに、日中に差しても「番傘」と言います。
上段、構えは冗談です。

傘屋は雨期が忙しいせいもありますが、僕が子どもの頃、継母が傘を持って僕を迎えに来てくれたことなど一度もありませんでした。その反動かどうか、僕は傘を持って息子を迎えに行ったことが何度もあります。
「雨雨ふれふれ もっとふれ 私のいい人つれて来い」(「雨の慕情」1980年 作詞:阿久悠 作曲:浜圭介)と八代亜紀は歌いますが、このところの雨には困りものです。
東日本、北日本では梅雨も明けないのに目下、高温注意報が出ており、関東では貯水池である水がめに雨が降らず、この夏、厳しい取水制限が行われるかもしれないような状況です。
桜の雨、梅の雨、紅葉の雨などがありますが、梅雨はつゆ、梅雨のない北海道はこのところ猛暑、梅雨の明けた沖縄も。
西日本、特に九州は大雨で大変なことになっています。被災者の皆様、心よりお見舞い申し上げます。


2017年7月9日
ひとみみのる 記

「いずれがアヤメかカキツバタ」

皆様方には、お変わりございませんか。
2017年5月、東京・大森での新緑のコンサートを終え、まもなく6月を迎えようとしています。
大森では毎回、大変多くの方々にお越し頂き、力強いご声援を得て無事、成功裡に終えられたこと、遅ればせながらここにお礼と感謝を申し上げます。
今回は昨年に続き、稲村なおこさんを交えての2回目のコンサートとなりました。これを機に出来れば恒例として今後も続けていけたらと念願しております。

東京では有名な根津神社のつつじ(躑躅)や亀戸天神の藤(紫藤)、更にはアヤメ(渓蓀)も終わりました。間もなく紫陽花(八仙花)やカキツバタ(燕子花)、続いてハナショウブ(花菖蒲)、キョウチクトウ(夾竹桃)、クチナシ(梔子)などと初夏の花に引き継がれていくのでしょう。

『古今集』・『伊勢物語』に在原業平がカキツバタを詠んだ句があります。
ら衣 つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞ思ふ」
そこから「カキツバタ」を2015年瞳みのる&二十二世紀バンドライブツアー名としましたが、「アヤメ」と「カキツバタ」は区別がつけがたいという意味で「いずれがアヤメかカキツバタ」という慣用句があります。
どれも素晴らしく優劣はつけがたいという意味だそうです。
アヤメ、カキツバタ、それにハナショウブは花としてよく似ていますが、咲く時期が違うそうです。

アヤメ    5月上旬~中旬
カキツバタ  5月中旬~下旬
ハナショウブ 6月上旬~下旬

また、それぞれに次のような特徴や違いがあります。
アヤメ=外花被片に網目模様あり、乾いた所に育つ。
カキツバタ=外花被片に網目模様なし、外花被片に白い斑紋があり、湿地に育つ。
ハナショウブ=外花被片に網目模様なし、外花被片に黄色い斑紋があり、湿地に育つ。
アヤメとの判別法として、外花破片に網目模様、すなわち文目(あやめ)のあるのがアヤメだと考えるのが手ですね。
花としての大小を比べれば、ハナショウブに軍配が上がり、勝負あり。
花談義は、花壇、下段ですべきか冗談、上段ですべきか、一先ず中段、中断。

先日(2017年5月21日)、僕が特任教授を務める神奈川歯科大学で開学100周年記念式典があり、僕も式に出席しました。当日は歯科医関係者が多かったのはもちろんですが、政治家もいました。元総理大臣・小泉純一郎氏、受動喫煙審議で時の人の参議院議員・三原じゅん子氏、午後のパーティーでは小泉元総理の二男で自民党衆議院議員の小泉進次郎氏、公明党衆議院議員古屋範子氏、アトラクションでは、雅楽演奏家の東儀秀樹氏、ジャズトランぺッターの日野皓正氏などが出演しました。日野氏は前回もそうでしたが、ジャズのスタンダードナンバー中心の演奏だったので大変楽しめました。
日野氏の演奏を聴くのは二度目、進次郎氏と同席したのも二度目でした。

先の「ムッシュかまやつ お別れの会」で初めて会ったロックプロデューサー・画家・木村英輝さんのお誘いで、昨日(2017年5月27日)京都で開催中の、木村さんがプロデュースするRimpa Rock part 2 「Love&Peace」の会に日帰りで行ってきました。画家だけに視覚的で絵画的、またロックの音楽を取り入れた聴覚的な素晴らしい舞台でした。
沢田研二さんから何度も話を聞いていた方であったので、人となりに興味を持っていたのですが、古都・京都から世界を股にかけて活躍するエネルギー溢れる素晴らしい人でした。
このところ、次回のコンサートの計画に没頭していて、ボッとしている暇もありませんが、僕は僕なりに頑張らねばと思うことしきりです。


[photo] 山王オーディアム「花鳥風月 ~ムーンライトセレナーデ~」 >>
ひとみみのる 記
2017年5月28日

「出会いと別れ」

昨日(5/2)行われたザ・スパイダース主催の「ムッシュかまやつ お別れの会」に僕も出席させていただきました。
僕がかまやつ(釜萢弘1939年1月12日~ 2017年3月1日)さんと最後にお会いしたのは、ザ・タイガースを辞める前年の1970年でしたが、 その後、かまやつさんとお会いする機会がなく、結局このような会で遺影に向かってご冥福をお祈りすることになってしまいました。

かまやつさんのご子息・釜萢太郎君と最初に会ったのは、かつて日劇で行なわれていた「ウエスタンカーニバル」か、あるいは東京・飯倉にあるイタリアンレストラン「キャンティー」かどこかだったと思います。奥様に連れてこられた太郎君は2、3歳ぐらいの可愛い坊やで、 よく動き回るわんぱく盛りの元気な子といった印象でした。

その後、僕がザ・タイガースを辞め慶応高校の教師をしていたある年の新学期、漢文を教える3年生のクラスで、最初の授業前に生徒の点呼を取っていた時、出席簿に太郎君の名前があったのでビックリしました。だが、そこはあえて平静を装い「釜萢太郎君」と名前を呼びました。
彼は、他の生徒と同じようにごく普通に「ハイ」と返事をしました。
その後、太郎君が卒業するまでの1年間、授業中に私的な会話をしたことはありませんでした。

それが昨日、お別れ会の終了後のあわただしいさなか、太郎君が僕の前にスウーッと現れ挨拶をしてくれました。
「釜萢です」
僕は
「いやー」と応えただけで、言葉らしい言葉も交わさず固い握手を交わしました。お互い言葉には出しませんでしたが、彼が話したいことは僕にはわかりましたし、彼も僕に話したいことは伝わったと思っていたのでしょう。

かまやつさんが泉下の人になった数日前に亡くなられた奥様とは、歯医者(東京・虎ノ門)が一緒で、たまたま数年前にクリニックで顔を合わせ、奥様の方から優しく声を掛けて頂いたこともありました。

昨夜はもうひとつ驚いたことがありました。
ザ・タイガースの前身のザ・ファニーズの第一発掘者であり、1971年1月24日にザ・タイガースが東京の日本武道館で解散コンサートを行なったその夜、有楽町のちゃんこ料理店で最後のお別れの食事会を開いてくれた内田裕也さんとお会いすることができました。
僕以外のメンバーは解散後も裕也さんと交流を続けていたのでしょうが、僕にはそうしたチャンスがありませんでした。
40数年ぶりに裕也さんにお会いした僕は握手を求め、再会できたことに感謝しました。

昨日は、人の「出会いと別れ」を強く感じた一日となりました。

[photo] 「出会いと別れ」 >>
ひとみみのる 記
2017年5月3日

「意外之中的意外」(意外中の意外)

2017年4月15日(土)1:53付、早朝、僕の友人・櫻井澄夫さんのメールを見て、余りの突然の出来事で眠気は完全に吹き飛んだ。
「人見さん
今日(14日)の夕方、櫻井雅人が自宅で倒れ、死んでいるのが発見されました。
死後10日くらい経っているようです。
独り暮らしでしたから、だれにも正確な事情が分からず、明日、解剖に付される予定です。
家族葬にして、一般葬はやらない予定です。
つれあいはもう10年近く意識がなく、入院中です。ですから彼女には このことが理解できません。
10日ほど前、電話で話し、元気でした。
櫻井」


続いて、15日正午、櫻井さんから電話を貰った。僕としては、きっとご遺族の方は余りにも思いがけないことなので、その対応に追われて電話などかける暇もないのではと思っていた矢先だったので意外った。僕はその時、彼に何と言えばいいのか分からず、ありきたりのお悔やみを言うのが精一杯であった。


更に、17日(月)3:24付のメールを彼から貰った。
「人見さん
おはようございます。
一昨日、警察が兄の解剖を行い、死因は脳梗塞だということが分かりました。自宅で倒れて、しばらく生きていたようですが、たぶん誰も呼べず、電話もできなくて、死んだようです。10日ほど経って発見されたわけですが、独りさびしく、遺言もなくあの世に行きました。私は最近、出版社と兄の本の出版の交渉をしたりしていました。本人は元気だったので、みな驚いています。
いずれにせよ、いろいろお世話になり、ありがとうございました。声をかけていただき、いつも本人は喜んで、出かけていました。兄嫁や子供が側にいたら、こんなことには、ならなかったのかも知れませんが、やむをえません。多くの人にとって、人生は未完で終わるのでしょう。
北京の本も、完成までもう一歩です。よろしくお願いします。
櫻井澄夫」


4月17日(月)15:25付で、僕は次のようなメールを櫻井さんに送った。
「櫻井さん
ご愁傷さまです。
お兄様ご逝去、衷心よりお悔やみ申し上げます。
窺い知れないところで地道に、粘り強くお仕事をされておられることに、いつも敬服しておりました。
もう10年近くになりますか、僕が明治の唱歌に強い関心を持っているということから、櫻井さんがそれならばそれを研究している兄に紹介するよということで、確か最初自由ケ丘から電話をおかけしました。それがお兄さんとお付き合いさせていただくきっかけとなり、今でもそのことがまるで昨日のことのように懐かしく思い出されます。
その後、如水会館では拙著の出版記念会にお出で下さり、唱歌のお話を壇上 でご一緒させて貰い、会に花を添えて頂きました。僕の方からは何も学問的にはお力になれませんでしたが、その後唱歌・童謡の道を歩む際にどれだけ参考になり心強く思ったか、筆舌に尽くせません。そのお礼もきちんと出来ないまま、彼岸へと旅立たれました。
ここに改めて深く感謝申し上げます。
少し色のついた眼鏡の奥の研究者としての鋭い眼差し、忘れられません。それでいて、常に優しい心配りのできる方でした。
僕より3歳上、まだまだこれからお仕事を大成されると思っておりましたのに残念でなりません。
櫻井さん、さぞ落胆されたことでしょう。
あなたが『多くの人にとって、人生は未完で終わるのでしょう』と言われるように、僕にもそのように思えます。『何をしてもきっと道半ばで、命尽きるのでしょうね。』
でも、お兄さんはまだまだ、これからだと思っておりました。言っても詮方無いことです。
ご冥福をお祈り申し上げます。

ひとみみのる 合掌」

2017年4月18日付、『朝日新聞』朝刊に
以下のような訃報記事が載った。

桜井 雅人さん(さくらい・
まさと)=一橋大名誉教授・英語
学)14日、東京都町田市の自宅
で亡くなっているのが見つかっ
た。73歳。葬儀は親族で行う。
英米歌謡民謡論を研究。作者
不詳とされていた小学唱歌「あ
おげば尊し」の原曲が、19世紀
に米国で作られた「卒業式の歌」で あることを11年に突き止めた。


『ロング・グッバイのあとで』出版記念会 
2011年2月25日 如水会館にて
2017年4月21日

「櫻花」(さくらばな)

「唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」
『古今和歌集』『伊勢物語』に登場する平安初期の歌人・在原業平の和歌で、「杜若」(かきつばた)を観賞した折、その花の5文字を句頭にして詠んだという。

今日は未明(3時半ごろ)に目が覚めたが、その後いっこうに眠れない。そこで、今を盛りと咲き誇る桜のことを思い、闇の中ひたすら夜明けを求めて「枕中散策」に出かけた。ただ、詠むだけでは能がないと考え、先の業平よろしく「桜花」(さくらばな)の5文字をそれぞれ頭にして短歌を詠んでみた。

「桜木と 比べてみるか 爛漫と 遥かに霞む 菜の花畑」
気に入らない。
「咲き競い 比べてみるか 爛漫と 遥かに霞む 菜の花畑」
「咲く桜 比べてみるか 爛漫と 華やぎ競う 菜の花畑」
同工異曲、菜の花畑が頭から離れない。そこで、発想と視点を少し変え、
「淋しさや 苦しさ越えて 爛漫と 花咲き誇る 名は櫻花」
と歌ってみて、漸く気持ちがそれなりに収まり眠りに就いた。

翌朝、起き出して、またふと「桜花」の歌が脳裏を過った。
「淋しさや 苦しささえも 楽観し 遥かめざして なおも歩まん」
何だか、人生訓めいたスローガン、標語のようである。でも、朝は人の心をいくらか洗ってくれるようだ。それでは、今日も更にその先めざして歩き進もう。

次の新曲のタイトルは図らずも、
「まっすぐに前だけを」(生き方の愚直さ、稚拙さ)
もう一曲は、来ぬ人を今夜も待つ「朧月」(おぼろづき)(春の季節おぼろに霞む月)
皆さん、「花鳥風月ムーンライトセレナーデ」5月6日公演のステージで、リリースします。 どうか聴きにお越しください。
各回とも楽曲構成が変化します。楽しんで頂けたら幸いです。

それはそうとして元へ。皆様もどうぞ「さくらばな」を用いて一首作ってみてはいかがですか。

追記:
「桜花下(おうかした)、桜香(おうか)を追うか 追わぬかは 
桜華(おうか)を愛(め)でて 謳歌(おうか)まずせん」

[photo]  桜、桜、桃 >>

 

5月6日(土)、5月7日(日)
山王オーディアム(大森) 最寄駅:JR「大森駅」

ひとみみのる 記
2017年4月9日






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